木の腐りかけた湿った匂いが辺りに立ち込めていた。窓からが穏やかな橙が差し込んできて、瞼を閉じてもその色がぼやりと浮かび上がるようだった。教室の中心に、黒い曲線のなめらかに描かれたピアノがどっしりとした重みでもって沈静していた。音をより響かせるための蓋がすべて閉じられたままで古泉は椅子に座り、その艶やかに磨かれて反射する黒の光を、つう、と撫でて、その先に何かが見えるかのように目を細めた。鍵盤に触れたかと思えば、愛しそうに愛しそうに、黒と黒の間に走る白の一音を、鳴らした。弦の弾いた空気の振動が鼓膜を震わせる。ソの音。でたらめに、しかしまるでひとつの譜面を読むように古泉は旋律を追っていく。なぜか悲しみに満ちているような色の交わりは慎重に、ひとつひとつ確かめるかのように響かれた音だった。そのうちにくたりと萎れてしまった古泉は、目を瞑り、耳をピアノにくっつけて和音を奏でる。ぼやけた音の中からいくつかのコードを探し出す。音が次の音を導くように、伝い、繋いでいく。

鬱陶しそうにその光景をあらかた眺めていた俺は、古泉の背後からそっと近づいて、そのやわらかな白をひとつ、叩いた。ぴん、と音が張る。
なにか、弾けますかと問われたが、ピアノなんて習ったこともなかったので断ると、古泉は悲しそうに微笑んだ。なぜか苛立ちのようなもやもやとした感情の突起が、胸の辺りで蠢いて、俺は眉を顰めた。
(いつだってそう、こいつは薄く笑うことしかできない)
後ろから、顔を覗くような形で唇に噛み付くと、古泉が目を一瞬見開いたのがわかった。俺は唐突に古泉に向かって、笑えよ、とただそう一言言い放った。そうしてまた易々と笑顔を作る古泉に苛立ちを覚えて、その顔を睨みつけた。
そんな顔しないで、と頬に触れようとする手を掴み、ピアノへと押し倒す。乱暴に口付ければ、はずみで不協和音が鳴り響く。ひどく後味が悪かった。
そんな顔をしているのはお前のほうだろう。呟けば、なぜか俺の顔の表面がぱりぱりに渇いてなにか仮面のようなものが剥がれ落ちていくのを感じた。底から渦を巻くような感情の流れを止められない。
お前はハルヒのためにここにいて俺もその観察内容に含まれているから相手して、そんなん楽しいわけねえよなあ、それが使命なんだから仕方ないって顔して平気で嘘ついて、そんなんだからお前、上手に笑えないんだよ、なあそうだろ?顔を歪ませながら俺はせり上がる吐き気を抑えて、笑ってやった。

傷、つけてやるよ。そうしたらお前は俺の中で消えないで済むんだ。

何も感じないみたいな顔した古泉はただ俺の目の奥の奥を見据えて、2、3度瞬きをした。そうして口の端がゆるく吊り上ることを俺は知っている。でなければ古泉は俺の振り翳した刃に胸をざっくりと切られ、消滅してしまったかのどちらかだ。



バッファロー'97