どん、といきなり壁に突きつけられて、その衝撃で一瞬、頭の中が真っ白になる。ぶつかった肩が痛い。彼の手が上がって、殴られるのだろうなと頭の隅で過ぎる。
視線が合った。いつもの彼からは想像もつかないような、ぎろりと狂気を放つような、恐ろしい目つきだった。こんな風に誰かに憎まれるのも最初で最後かもしれない、そう思ったら、目が離せなかった。けれどその視線も次第に、まるで乾いた土に水が染み込むみたいに、じわりと緩んでいくのがわかる。
「なんでお前はいつも、」
そうなんだよ、と、唇を歪ませて、彼は首を項垂れた。ここまで感情的になって怒った彼を初めて見る。その対象が涼宮ハルヒではなく自分だというのに、客観的に見ている自分がおかしくて笑ってしまいそうになる。
握り込めて、振り上げて、ためらうように留まったその手。
(暴力を振るったところで、誰も何も言わないのに)
彼は、優しいから。今だって眉間に皺を寄せて、彼はなぜだか泣きそうな顔をしているのだろう。

携帯が鳴る。着信に出られずにいたら、彼が顔を上げた。
「行けよ」
そのときの顔、なんて言い表していいのかわからないけれど、忘れたくないなあ。
彼が自分のためだけに映した感情が、目に映る形で残る、瞬きと瞬きの間。だけど彼には何も返せないから。ただ笑顔を張り付けることくらいしか、できない。



ざあざあと雨音が耳に流れ込んできて鬱陶しい。車の窓ガラスに当たっては落ちていく水滴を目でなぞりながら、溜息をつく。雨の日は嫌いだ。頭痛が止まらないから。車を降りると、自分の部屋の前で誰かが待っていた。
カンカン、と安っぽい造りの階段を上がり、人影がこちらに気づく。傘の先から水溜りができていて、それを彼はぼんやりと眺めていたようだ。
「お前、あのとき、俺に殴られたかったか」
落ち着き払った声色で、彼は問う。見上げる世界は灰色なのに、彼はいつだって透き通るような色を身につけて、僕に触れようとする。嘲るように軽く笑って、どこまで行けるかな。
「殴ってくださってもよかったですし、そのまま」
そのまま、いっそ嫌われてしまっても? 声にならなくて、口を噤んだ。
「違うんだ、」
そういうことを聞いているんじゃなくて。言葉を遮る言葉が思考を遮って、空白だけが取り残される。
(でもそれがお前の答えなら、)
目が、淡い表情を浮かばせて、何を伝えようとしている?

「・・・それだけ、聞きにきたんだ」
気にすんな、そう彼は笑って、それからふっと手が伸びて頬に触れた。温かな、手のひらだった。
するりとそれは逃げるように、彼と一緒に消えていった。



消える熱