鼻の先が触れ合いそうなくらいの距離まで顔が近づいてきたまではわかったのだけれど、肩を掴まれていたので身動きが取れなかったのだ。瞼を閉じて開く一瞬、一秒で蛍が俺にキスをした。
「奪っちゃった」
何事もなかったかのように蛍は小さくごめんね、と呟く。・・・いや、別にいいけど、と言葉を濁しながら核心に触れられない俺を蛍はどう思っているのだろうか。
こういうのは今までに何度かあった。いずれも女装しているときのみのことだったのだけれど、今度ばかりは違う。少なくとも以前から俺の前で見せてきた蛍の姿だった。

思えば何もかもが不自然だった。突然、連絡もなしにうちにやってきたかと思えばテレビをつけて、それを暫く眺め、唐突にこれだ。
なんかあったのか、とか、もう遅いし泊まっていけば、とか、何を口にすべきか錯誤していたら、それを見抜いたかのように蛍は笑った。
「心配してくれるの?嬉しいなぁ」
ああ全部お見通しなんだなァと頭の隅で理解して、ふっとため息をつく。
髪だって短いしメイクが施してあるわけでもない蛍は自然体で、そのありのままの蛍が俺は一番好きだ。
「今は女じゃねえの?」
問えば、そうだよ、と蛍はゆるやかな声で瞬く。その透明は空気を通り抜け俺の鼓膜にじわりと余韻を残した。
「僕はね、沢木のお嫁さんになりたかったんだ」
まるでおとぎ話をしているみたいな蛍は幼稚園の先生のようだ。その先生がどうして僕のお嫁さんなんかに? 内心驚きながらも、どうしてか表面上だけは冷静を装っている俺はへえ、と蛍の目の奥のはるか遠くを見据える。
どう答えていいのか、どう反応すればいいのか、わからなかった。冗談だろ?なんて、真剣な蛍の目を見て、言えるわけがなかった。


だけど沢木は僕を選んでくれないから。ぽつりと置いてけぼりにされた子供が、悲しそうに笑う。

「今の忘れてね。おやすみ」

ぱちんと照明が消されて部屋が闇に包まれる。薄い布団にくるまって蛍は何を思うんだろう。―――俺は、誰を思えばよかったんだろう。
そんなの決まってるじゃないか。

ごめんな蛍。




じょうずにあいせなくてごめんね