キンコンカンコン、と鐘が鳴って、昼休みの始まりを告げた。
それとない様子で、と言いつつ内心かなり緊張しながらキョン君の教室を覗いてみる。窓際に思い描いたとおりの姿がそこにあって、少しの間その光景を目に焼き付けておく。
どうかしましたか?とキョン君のクラスの女子が丁寧にも話しかけてくれたので、あの窓際に取り巻く一人の男の子をお願いします、と簡潔に述べればキョン君がこちらを一目見て、ドアまで向かってくる。
「どした、古泉」
他にいた彼らに見られないようにするためか、人気のない通路側まで引き寄せられて、少しどきどきした。大した用じゃないんですけど、と申し訳なさそうに切り出してみる。
「体操着貸してくれませんか」
怒られやしまいかと、忘れてしまったんです、と空々しく嘯けばキョン君はいつまでもからりとした顔で、ああ、いいよ、と笑った。
「あーでも俺さっき体育だったからよごれてっぞ」
それでもいんなら、とロッカーから取り出された体操着袋を僕は大切に抱えて、ありがとうございますとお礼を言った。

急いで駆け足で部室に向かう。窓のカーテンを閉め、ドアの鍵を掛ける。その辺はぬかりない。周囲に人がいないかを確認して、一息つくと期待と不安で胸が張り裂けそうになる。
指先をそっと、袋の中に差し入れて、引き抜くと白い体操着とジャージが目の前に現れる。これがキョン君の、と心に念じるだけで指先まで震えた。熱で汗ばんでしまいそうだと感じながら、広げてみれば、まっさらな純白。
その白を、顔に軽く押し当ててみる。それから、こみあげる気持ちを抑えきれず、胸に抱く。
(あなたのにおいがする)
これを彼が着ていたのだ、それを確かに感じる。
ごめんなさい、ごめんなさいと何度も呟きながら、片手でベルトを外そうとしたそのときだった。

「古泉?」
ガタン、扉がつっかえる音がした。
あれ、古泉、いないのか? 薄く呟かれた彼のやわらかな声を、その何も知らない無垢な瞳を、僕はまさに今、裏切ろうとしている。
ほんの少しの覚悟を決めると、扉は開かれた。
鍵を解くとこいずみ、のこの音を耳に触れさせるより早く、引き寄せる。袖を引っ張れば、うあ、と呻くキョン君が倒れかけて、それを支えた。
ガシャン、閉じ込めた教室、開かれた目線の先。
「な、にす」
「僕は今、あなたのことを想像しながら、これで抜こうとしていたんです」
白いシャツを左手に、頬が引きつる感覚。
「軽蔑しました?」
告白するってこんな気持ちだったろうか。どこか遠くを見つめているようなキョン君を、僕はどんな目で、どんな顔で、見れている?
「こ、いずみ?」
空恐ろしいものを見たみたいに、キョン君の顔がくしゃり、マーブル模様みたいだ。
(人に好かれるってこんなにも気持ちの悪いことだったんですね。僕は、知りませんでした。)

「まだ僕をそんなふうに思えないようでしたら、見ててくださいよ」
笑いながら、僕は椅子に腰掛けてベルトに手を掛ける。キョン君は自分の目の前で繰り広げられている場景が信じられないといった様子で、立ち尽くしている。

手で扱えば、見られているという興奮からかすぐに達してしまいそうになった。
「・・ん、キョンく、」
怖くて、顔色を伺うことすらできなかった。
白濁した液体を手にまみれさせたとき、ようやく僕は彼の目を見つめることができて、そうしたら君はとても傷ついたような顔をしていたものだから、僕は悲しくて、ただただ悲しくて顔を歪めることしかできなかったのです。


「お前、俺のこと好きなのか、」
緊張した面持ちで、キョン君は声を震わせる。
「違います、と言えたら、あなたは僕のことを好きでいてくれますか?」
ぎゅ、と握りこめられたあなたの右手に、僕はなりたい。
「それは、・・」
戸惑いがちに、俯いていた彼の顔は何を暗示している。言葉だけでは伝えられないものがあるから、人は、触れ合うのだろうか。
「俺はお前が好きだ、し・・あっ、そういう意味ではなくてだな」
こんなことをされてまで、あなたは僕をかばうの。どうして?傷、つけてもいいのに。そうされることを誰より望んでいるというのに。
「その、お前の言う好き、て、どういう好き、」
前を見据えたキョン君は、あるはずのない答えを探す。顔を近づければ、瞬きと瞬きがかち合った。そのまま唇を軽く、触れ合わせる。
「こういう好き、です」
触れ合わせた皮膚の表面が、熱い。なんてことをしてしまったのだろう。罪悪感と幸福で、この心はとっくに満たされていた。ああ、と馬鹿な僕はやっと理解した。
(あなたは優しいから、)
だから、許してしまうの。

「泣くなよ」
気がつけば目から涙が溢れていて、あれ、おかしいな、足の力が抜けていく。崩れ落ちる無様な様を、キョン君は、ただ見つめていた。それしかできないみたいに、眉を顰ませて。
「おれ、どうしていいかわかんねェよ」
苦い表情を浮かばせたキョン君の指の先は爪が食い込んで、ついには赤い血が流れてしまいそうだ。跪いたまま見上げれば、涙で滲んで見えないはずのキョン君の顔が、目に浮かぶみたいに、僕には見えた。
「どうしてあなたが、そんな顔をするんですか」
頬が濡れて、心の痛みばかりが広がる。じわり、じわり、瞬きの瞬間にたくさんの感情が滲んで、混じり合う。


やさしい指先が降って来る。おそるおそる慎重な手つきで、皮膚を、心地のよい温度がやわらかく撫でていく。
あなたが笑うと、魔法みたいに、それは花びらのように軽やかに、こぼれおちて、消えていった。




君の宇宙とリヴァイアサン