車を止めて、と森園生は言った。
やわらかな音程で制止するその声は新川さんにブレーキを踏ませる。急に停車したせいで視界がぐらついて、そのことにどう対応していいのかわからず、つい目線を泳がせる。古泉、そう名前を呼ばれて、車を降りないわけにはいかない。
「少し歩きたいわ」
黒いハイヒールが堅い音を立てながら歩き出す。歩き出せ、クローバー。頭の中で歌いながら、彼女の斜め後ろを常にキープ。
「初詣はした?」
いいえ、僕は答える。赤く焼けた空を遠い目で見上げた森さんは、ふっと息を吐いて、次の角を曲がった。
「私、今年はしてないのよ」
付き合ってくれるでしょ?
くすっと微笑んだ森さんは立派な大人の女性なのに、なんだかちょっとだけ可愛かった。その数分後にそれを取り消したくなるとは、思いもしなかったのだ。
街の後ろで緑が覆い茂っているなあとぼんやり目についてはいたけれど、その上にある神社を目指すことになるなんて、まさかね。

息を切らして長い長い石段を駆け上る。このところ学校へ行く以外、家に引きこもってばかりで運動もしていなかった。それにしたって森さんの体力は尋常ではないことが証明されたのだが、なんとも情けない。
駆け上がるその先で森さんが待ってる。ゴールまでもう少し。影になって顔は見えないけど、いつまでもそうやって僕の前で立っていてほしい、だなんて。言えるわけない。
「体、なまってるんじゃないの?」
ああでもそうやって、森さんがくしゃって困った顔で笑ってくれるのなら、僕はそれでもいい。
「すいません、遅く、なりました」
息を切らしながら渇いた喉が焼けるみたいに痛い、でもなんだかとても爽快だ。
二人でお参りをする。何を願えばいいのかわからなくて、ちらりと横を見てしまったのだけれど、それも見抜かれている気がするなあ。

すっかり暮れかけた空と、電灯の僅かな光を頼りにまた歩き出す。もうこの石段は二度と登りたくないと思いつつも、なんだか名残惜しい。確実に夜が近づいてきていて、長いこと新川さんを待たせてしまっている。

暗闇と見分けのつかない車にたどり着くまでに、小さな屋台が出ている道を通った。てっきり素通りするものだとばかり思っていたのに、森さんは机の上に並べられたものを子供のような目でじっと見つめていた。
これが欲しい、そう彼女が指差したのは、祭りのときによく売られているおもちゃの指輪だった。


森さんは腕を伸ばして見せびらかすみたいに、まるで勝ち誇ったように、嬉しそうに笑う。
「ありがとう」
振り向き様、左の小指に光る石は偽物だけど。
もしも、本当にもしもだけれど、本物の指輪を渡すときが来るとしたら、自ら指にはめられるくらいの大人になってからにしよう。


不死身のビーナス