(あまいにおいのする )

すん、と鼻を鳴らして閉じていた瞼が自然と持ち上がり、ずるりと椅子から転げ落ちそうになる。心地良い振動に揺られていたせいか眠りかけていた思考がやっと活動し始めた。そうだ、用事があって電車に乗ったんだった。しかしなぜだかその用件が思い出せない。そういえば周りに乗客が一人もいないのがどうにもおかしい。そうか、これは夢か。夢なのか。そう思い込もうとしていたときだ。ふわりと甘い匂いがまた、鼻孔を掠めた。
「あれ、古泉?」
左の隅に座っているあの制服は古泉だ。なあ俺夢を見ているみたいなんだ、そう問おうとして近づけば蜜に吸い寄せられる蝶のよう、視界がぐわりと揺れて、空間が傾く。倒れ込むような形で身体を預けてしまえば、古泉がゆるく微笑んで、電車の窓から夕焼けが、曇り空が、暗闇が、小さな光が、大きな大きな、何もかもを破壊する深い青が、そしてそれを阻止する赤い球が。
(なあどうしてこんなもの、俺に見せるの)

古泉はそれはそれは綺麗な顔をしたまま、薄く笑う。甘い匂いだけ残して、消えてしまいそうな気がして。
「どこにも行かないよな、」
不安になって、伸ばした腕はお前を抱きしめるためだけにあればいいのに。
ぎゅっと骨の軋む音がしそうになるまで、この気持ちを、胸に抱く。

( つ た わ っ て )

どくん、どくんと不規則な心臓の音も、その辺りを掴まれたようなちりちりとした痛みも、儚く消え入りそうな笑顔を絶やさないお前を俺が愛しいと思う気持ちも、ぜんぶ。

腕を放して、なあ伝わったか、言葉にならないまま、どんどん胸の辺りに感情ばかりがこぼれて、ついには泣き出していた。俺がありったけのことをしたってお前は俺の言葉の届かないところにいて、触れたとしてそれは幻で。信じないだろう。信じられないだろう。こんな世界。
「何を、泣いているんですか」
ぼろぼろと涙が目から落ちていって、それを古泉はすくうみたいに撫でる。ひたひた、水に触れた指先は冷たく、目じりをなぞればほら。ぴたりと止まる。

はは、と肺から空気が漏れて、乾いた笑いになる。
「確かめてもいいか」
鼻をすすって、尋ねれば、古泉はどうぞ、と一度瞬きをした。頬に手をやって、唇を親指の腹で撫でて、ちゅ、と口付ける。唇と唇を合わせる行為に意味なんかきっとない。ただ何かが伝わるような、そんな感触がするから。
「どうかしたんですか?」
俺は古泉の手を引いて、電車を降りる。
「いいや、」
なんでもないと首を振れば、繋いだ手からぬくもりを感じる。
俺と古泉は確かにここに存在していて、こうして息をしている。それだけで、たったそれだけのことが。

歩き出す先は空の果て。どこへだって行けるさ、今ならきっと空だって飛べる。
どこまでも、遠くへ。




...つたわって