「なんで、」 その言葉を耳にした赤井は珍しく眉を顰めて、どこか憂いを帯びた表情をした。 単純な触れ合いだった、赤井の唇と安室の唇が、もののはずみでと言えば聞こえはいいが、そっと、まるで蝶が花に止まるかのような軽さで触れたのだ。ふっと息を吐いて、赤井は何事もなかったように定位置であるベッドの脇に腰を下ろした。片足を折り曲げ、肘掛にしている。 「そんなの、君にしかわからないことだと思うが」 ……は? と安室は体中に張り巡らされている血管が全て切れそうになる感覚を覚え、しかしながら既のところで留まった。なぜならいつも不敵に笑っているはずの赤井の顔が、僅かに歪められていたからだ。しんと静まりかえる夜、小さな子供は寝息を立てている時分に、憎むべき相手の家にのこのことやってきて、ふんと鼻を鳴らして皮肉を言っては押し黙る。わけあってそのような行動を取っていたが、いよいよ赤井がその気になったと思うと気分がいいはずだった。はずだったのだ。肩透かしをくらった気分で、胸の内がスースーするような、空気の抜けていく気持ちの置き所を思案する。 「あなたが何を言っているのかさっぱりわかりません。僕はもう寝ます」 ソファを占領し、近くにあったブランケットを被って目を閉じれば三秒で眠ってしまえる、なんて都合のいい体だろうと安室は我ながら感心した。赤井が自分のことをどう思っているのかなんて、知るか。何度かたどり着きかける答えに蓋をしながら、安室は不貞寝した。認めたくないし知りたくもない。そんな感情ばかりが前に出るが、心の底ではきっと違っている。 相変わらず昼には喧嘩をふっかけている安室は日が落ちると途端に大人しくなり、いつしか赤井と夜を共にするようになった。始めのうちこそソファを占領することが多かったが、次第に寝ぼけて入ってしまっただけだと言い訳をしたその日からベッドに滑り込むようになり、そんな様子を大きな小動物のようだと赤井は思っていた。 あれからキスを、数回した。するたびに妙な緊張感が走ったが、それでも安室は逃げなかった。最後に薄い唇を舌でなぞって終わらせると、手の甲でごしごしと拭いながら、犬にでも噛まれたと思って忘れますと宣言された日には笑ってしまった。 寝苦しい熱帯夜だった。シングルベッドで男二人が背中を付き合わせるように横になるには、いささか無理があった。じっとりと汗をかきながら、普段はあまりクーラーをつけない赤井が観念して窓を閉め、ベッドに腰掛けてリモコンを手を取ると安室の腕が伸びてきてそれを奪った。小さく首を横に振り、テレビ台の下に隠してしまう。 「だって、夏でしょう」 身を乗り出してそんなことを言う安室の白いTシャツがたるみ、胸元が見て取れる。あつくしてほしいと、その目が言っている。暗がりの中でも夜目が効くせいで、熱に浮かされている顔が視認できた。かかんでキスするふりをして、額と額をくっつける。我慢の弱い安室はむっとして、突き出した唇をそのまま当てにいった。なし崩しのように始まったセックスに、暑さのせいだと嘯いて二人して流されていった。日に焼けた素肌をまさぐり、触れる指先はいつでも優しさを伴うので、そんなむずがゆさに歯を食いしばる。絆されてしまいそうだから、優しくされるほうがよっぽど怖かった。赤井は安室のことを動物のようだと思ったが、事実二人がしていることは、ただの動物がすることと何一つ変わりなかった。 「優しくするの、やめてもらえますか」 端的に言い切った。何度目のセックスだろう、四度目だ、とこれまでの内容を思い返しながら、もっと乱暴にしてもらって構わないと言いたかった。胸やわき腹を愛撫する赤井の指先が止まり、ぽかんと呆気に取られている。 「では、今夜は君がしてみるのはどうかね」 赤井は男らしく肌着を取っ払うと、ぐいと胸倉を掴んで体を浮かし安室に自らを押し倒させた。あまりに不本意な形勢逆転にかっと頭に血が上る。やってやろうじゃありませんかと言わんばかりに、乗せられたことも棚に上げて乱暴に口付けを交わした。 赤井は駆け引きからキスからセックスまで上手だった。もちろん経験や才能もあるけれど、何より相手を気遣う気持ちとコミュニケーション能力に長けていた。セックスはコミュニケーションだ。体に溶かした心の通い合いだ。赤井のそれは相手を慈しみ、まるで安室に愛を教えるような、そういう抱き方だった。 安室は男とのセックスの経験はあるが、自分が下になり、前戯もおざなりに強引に挿入されたことがほとんどであったので、はじめてそんなふうに体に触れられ、優しくされたことに驚愕し、本当は少しだけ泣きそうになった。違う価値を与えられた気持ちがした。嘘だ、とも思った。 さて目の前に見えるはやや痩せ型ではあるが自分とそう変わらない体格の男で、皺だらけのシーツの上でリラックスしながら安室に抱かれるのを待っている。 脂汗が滲み、この男のことを思えば思うほどおかしな気持ちになってくる。屈辱ではないのか? どうしてそんなことができる? 今すぐに答えろFBIと心の中で問うが、口には出さなかった。安室は恐れていた。その答えを聞いてしまったら立ち直れない気がしたからだ。経験の有無を問えば、初めてだと言うからいよいよ眩暈を起こしそうになる。 愛撫の一環で首筋から鎖骨、胸へと唇を落とす。ちゅ、ちゅと音を立てながら、舌の先で乳首を舐めると赤井はふっと息を呑んだ。さらさらした金色の髪が肌をさらうと、赤井は形のいい耳を触るなり、髪を指で梳かすなりして最後には安室の頭をかき抱いた。赤井の心音がかすかに耳を掠め、目の奥がじんとする。反応しつつある陰茎をゆっくりと扱き、準備されていたローションを手に取った。 「できない」 指先でてらてらと光るそれを見つめながら、ぽつりと安室はそう零した。これではまるで自分が望んでるみたいではないかと胸中で吐き捨てる。安室は、赤井のことを抱きたいわけでも、抱かれたいわけでもなかった。安室には手に入れたいものがあった。赤井から真実の言葉を、口にしてほしかっただけなのだった。 あくまで献身的すぎる赤井の行動に、端的に言えば安室は折れた。赤井の顔もろくに見れないまま、俯いて指先を自身に差し入れ慣らしていった。射るような視線を感じながら、彼のスコープで覗かれているのだと安室は思った。 暴きたいと思っていたのに、暴かれたのは自分ばかりで、いつだって調子を狂わされてしまう。壊したいと思っていたのに、いざ差し出されてみると方法がわからない。教わってこなかった、目の前の男に教わったのは人の愛し方だったから。 四度目のセックスは、安室による騎乗位だった。 「いい眺めでしょう」 皮肉の一つや二つ、言わせてもらわないと割に合わない。赤井のそれを中に入れながら、上下に動いてやると赤井は濃艶なため息を漏らした。 「ああ……とてもいい景色だ」 そうして射精するときの赤井の顔を、安室は記憶した。意味なんてない。ただただ自分が生み出した官能に飲み込まれる赤井が、美しかった。嘘偽りない顔で、気持ちがいいと感情を伝えてくる目の前の男の顔が、忘れられないだけだ。 行為を終えた後、中に入った性器を抜くこともしないままぼんやりとしていた。森のように深い緑色した瞳がこちらを見上げている。 悔しくて、泣きたくて、打ちひしがれたい気分だった。安室の両の手がふらふらとさまよいながら、ようやく赤井の首元にたどりつく。指の先が緊張で震えたが、それでもゆっくりと力を込めた。首を絞めている最中、赤井の顔色はひとつも変わらなかった。やわらかく笑んでいるようにも見受けられた。赤井は流石に何度か噎せたが、抵抗もせず身を任せていた。安室は僕の大事な人を返せ、というありったけの思いを込めて、そうしたはずだった。 「……やめるのか?」 けほ、と息を吐き出し呼吸を整えながら、赤井は穏やかな声で問いかけてやった。 「あなたが諦めたように笑うからです。……どうして僕を許すんですか」 与えることができたのは同情ばかりだと赤井は思う。持ち得た真実を隠し続け、執着を向けられることが嫌ではなかった。囲い込んで、気を引きたかった。たったそれだけの理由だった。再び俯いてしまう安室の頬を、髪を優しく撫でてやりたかったが、そうしなかった。 なんで、どうして、そのように問う言葉だけが、彼の頬を伝う透明なしずくと共に流れ落ちていった。 # 美しく燃える森 |