喫茶店のカウンターに立ち、今日もコーヒーをドリップする。喫茶ポアロで働いている好青年、この僕が安室透。ただ一人のしがないウェイターであり、今ここにいるだけならばそれ以上でもそれ以下でもない。
喫茶ポアロにはいろいろな人がやって来ては何かしら注文し、思いも思いの時間を過ごしては去っていく。僕は彼らに飲食を提供している間、その人の人生を想像する。サラリーマン、主婦、OL、学生、商店街の人たち、工事現場のおじさん、水商売の女の子、新聞を読みにくる人や、恋をしている人。僕はきっと、その誰にでもなることができる。この小さな世界の狭い一角で、ただ一つのちっぽけな存在になりうることができた。自分の正義を全うするために手に入れた術だった。ただひとつできないことがあるとしたら、それはその人自身になることだった。変装し人を騙すことはできても、その心までそっくりそのままとはいかない。例えば赤井秀一が愛した女にはなれないように。
「……あなたとは、違う形で出会いたかったな」
カップにコーヒーを注ぎながら目の前のカウンターに座る男を見やれば、視線がかち合った。トレードマークであるニット帽は今はもう見当たらない。
「俺が、俺以外の人生を歩むことはありえないだろう」
わざわざ彼の好みであるキリマンジャロの深煎りを淹れて、カウンターに置いた。赤井はコーヒーの表面に映る自分を少しの間、見つめているようだった。彼の瞬きの瞬間って、それだけできれいだ。
「そういうものですかね」
「そういうものだよ」
暗闇にほど近いその色は、心の内側に隠した、決して他人に言うことはできない過去が積み重なったもののようにも思えた。コーヒーに口をつけるのを見届けると、ゆったりと時が流れていくのをお互いが心地よく感じている、そういう実感があった。
「ああ、とてもおいしい。……煙草を吸っても?」
相変わらずヘビースモーカーですねと安室は笑いながら、灰皿を差し出した。そうしてふいに、彼の長かった髪を思い出す。ニット帽から伸びた黒髪は女みたいにまっすぐで、さらりと風に靡いていた。
「……あなた、髪、切ったんですね」
「そのようだな」
どこからそんなものが出てきたのか、マッチを一本取り出し手馴れた様子で擦れば、赤井の指先からたちまち炎が燃え上がる。ずいぶん古風なやり方だなと安室は横目で見やり、洗ったばかりの食器をぴかぴかに磨いた。
「まるで他人事みたいに言うんですね」
「遠い昔のことでな、もうよく思い出せないんだ」
ふう、と吐かれた煙が巻かれて空気中に分散されていく。何をしていても格好がつくから嫌味な男だ。自分じゃこうはいかない。
「今の方が好きですよ、僕は」
「それは、どう受け取っていいのかな?」
挑発的なオリーブグリーンがカウンター越しにこちらを見つめてる、それも一定の熱量を持って。
「さあ、どうします?」
おかわり、いれますよとカップを下げようとした手を引き寄せられ、何かと思えば手の甲にキスされた。
「君の作ったハムサンドが毎日食べたい」
あなた、僕の作ったハムサンド食べたことありましたっけ? と安室ははてと記憶を振り返るが、赤井のそういうところが最強に可愛いと思うので、それを泳がせてやった。
「ハムサンドだけいいんですか?」
「……君には敵わないな」
どちらともなくふふっと笑い合う。穏やかな午後の昼下がり、こんな未来がいくつもの分岐を超えた先に続いてるなんて、昔の僕には到底想像もつかないだろう。
「それはどうも」
あなたでなくては、君でなくては、僕でなくては、俺でなくては。こんな関係は生まれはしないのだ。
# 今昔過去そして未来