誰にも見せたことのない表情を俺だけに見せる君がいる、そう気がついたのはごく最近のことだった。昔からひとたび会えば小馬鹿にするか責め立てるように罵倒するか軽いジョークにするかの三択で、てっきり嫌われているものだとばかり思っていた。意図したわけではないが職業柄このところよく会うな、と帰路についてぼんやり考えていれば、自宅の玄関の前に人影が見えた。誰だろうも何も明るいブロンドのような髪をした男なんて思い当たる人物が一人しかいない。ちなみに俺は彼の後頭部が好きだった。なにせ形が美しいので。 近づいて目線を合わせた途端雷がバチッと飛んで、誰にでも優しいタレ目が自分にだけ精一杯の苛立ちを込めて睨みつけてくる。 「ここあなたの家ですか? 容疑者を追うのにちょうどいい立地なんです、ベランダ借りますね」 そう言って後ろポケットから出しかけた鍵を奪い取り、双眼鏡を持って立てこもられた日には開いた口が塞がらなかったし、なんだか九十年代の匂いが立ち上る雰囲気に有料チャンネルで放送されていた刑事ドラマを思い出す。そういえば彼は警察官だったか、と至極当たり前のことを今更実感して、まいごのまいごの、という日本のメロディーを鼻歌で歌いかけて、やめた。とんだ皮肉だ。赤井にとっては思いついたままに行動を取っているだけだが、それがどうにも降谷にとっては勘に触るようで、いつだって折り合いがつかない。事を起こせば裏目に出てばかりなのに、彼は自分にだけ特別な態度を取っているのだと意識した瞬間、もっと好かれたいだなんて邪な気持ちが芽生え始めてしまう。しかしながら赤井はそういったものをカジュアルに取り入れることができたので、生きていく上ではたいへん些細なことであったし、それは降谷を余計苛立たせる原因のひとつでもあった。 張り込み初日、降谷はそこから一歩も動かず、時折部下と電話をしているようだった。こんなところにいられたところで困ることも特になく、赤井は帰って寝るだけという普段通りの生活を続けた。 翌日になっても降谷はそこにいたので、夕飯にしないか、と誘ってみれば無視を決め込まれた。ベランダでタバコを吸うふりをしながら、皿に乗せた簡単な夜食を置いてやれば素直に食べ始めたので、ああ君は野良だったのかと頭を撫でたくなった。跳ね除けられるのがわかっていたのでこれはまた別の機会に。 三日目ともなれば、ここでは交代できる人もいませんし少し休ませてもらいますとソファを陣取り仮眠。あまりに身勝手な行動に、それでも奇妙な愛おしさが生まれてくるような気がして不思議だった。風呂も好きに使っていいぞ、と聞く耳を持たない彼に付け足しておいてやる。 深夜三時、夜更けに目が覚めて水でも飲もうかと台所に向かうと、リビングの真ん中に置かれたソファで息を殺して眠っている降谷がいた。ああ起こしてしまうな、というかすでに起きているなと確信しながら近づいて、赤井は横向きで丸くなって眠る降谷の傍に立ち尽くした。ふいに手を伸ばして、本能的に拒否される確率は半々、と予想しつつその少しパサついた髪に触れた。はちみつ色の髪は夜に甘く溶けて、ふわりとした感触を赤井の手のひらに残した。きれいな形の後頭部を撫でてフィニッシュ、やりすぎは嫌われる。……野良猫を手懐けた、たったそれだけのことに嬉しさがこみ上げてしまい自分も歳を取ったなと実感する。 この奇妙な共同生活も長くは続かず、終止符の打たれる日があっけなく来た。 まるで運動会の幕開けのようにパン、と銃声が響き渡ると、降谷の目が溢れそうなほど大きく見開かれ、獲物を逃した猫の瞳孔が開く。俊敏な指先は携帯のパネル操作を正確に行い、ワンコールで繋がる部下にこう告げる。 「被害はない、容疑者は自殺したようだ。すぐそちらへ向かう」 昂ぶる脈拍がこちらまで聞こえてきそうで、赤井はそういった音やサインが聞こえてくるまで降谷のことを熱い視線で見つめ続けた。一呼吸置いてさあ行くぞと自身を叱咤し、かかとを蹴る降谷の顔色は死神でも取り付いたかのように暗い。彼が動き出すと同時に、反射的に腕を掴んでしまい、思ったことをそのまま口にする。 「ひどい顔をしている」 思考と口が直結しているだなんてガキか? と半ば自分に呆れながらも、これ以上の言葉が見つからない。また彼を苛立たせる最高の呪文を唱えてしまった。 「……あなたに僕の何がわかるっていうんです」 ほら見ろ、と赤井は少し後悔しながら、 それでもなんだか悲しい余韻の残るその声の行く末を思った。……わからないから引き止めたんだろう、と指先に力を込めてみるがこのままでは伝わらないの延長線上だ。俯いた降谷は死んだような目をしていて、まるで亡霊のようだ。 「すぐに向かうんじゃなかったか」 壁掛け時計を見やれば時刻は二十二時十五分、降谷はチッと舌打ちして、胸ポケットの携帯を取り出した。くるりと背を向け壁際に立ち、ぼそぼそと声を低く絞る。 「すまない、別件で立て込んでいる──」 言葉の合間に、後ろから抱きしめて、からかい半分で手の甲の青白い血管を撫で、キスの代わりに指先を絡めた。 「後は任せた」 降谷は電話を切ってからもしばらく無抵抗であったので、拒否されないことに驚いて、この先何をしたらいいのかわからなくなり赤井の手が止まる。 ──自殺? そうだ、追っていた容疑者が自殺した、それも拳銃で、まるで誰かのように。連想ゲームはどこまでも続く。 時系列の重なり合い、わずかな会話、生身での接触、そうして今、ついに降谷零を腕の中に閉じ込めている。誰にも知られないところで二人でいても何が生まれるわけでもないが、でもきっと今だけ、降谷は赤井との時間を優先させた。彼の心だけがいつまでも不透明で、観測をしてきた身としてはその行動自体がすでにイレギュラーだった。こちらが心を開いていても、相手から敵意しかなければ和解を諦めるしかない。仕方がなく解放してやろうと体を離したときだった。タイミングよく振り返る降谷は猫のようにするりと体を抜けたと思えば、さりげなく赤井のシャツの袖を持ってベッドへと誘導した。 「言葉にしたって、例え一生かけたってあなたにはわかりっこない。だったら体で伝えます」 ベッドに強引に転がされると、降谷は膝を乗り上げ、赤井を見下ろしながらそう言った。ギシ、とスプリングが鳴って、逆光でうまく表情が読み取れないが、今から犯すと言わんばかりの獣の目線にぞくぞくと背筋が痺れる。する側ならまだしもされる側としては体験したことがないので、体が緊張でやや強張っていた。彼は自分相手でもそういった嗜好が可能なのかと、そんな意外性に驚く。 キスはしないつもりなのか唐突に喉仏を噛まれると、ふわりと垂れた髪の毛から自宅に置いてあるシャンプーの香りがして、たったそれだけで興奮した。首筋から舌で辿るように這い上がり、耳の外側を舐って、中に入り込んでくる。卑猥で乱雑な音が蠢き、降谷の赤い舌先が赤井の耳を犯した。 黒いシャツばかり着るのやめたらどうです、と文句を言われたことのあるそれに手を掛けられ、気に食わないから脱がすのか、と腑に落ちてその指先を見守った。 「僕もあなたのこと、きっと少しもわかっちゃいないんでしょうね」 どこまでも平坦な声が道のように続いていて、その言葉をどんな気持ちで降谷が口にしたのか赤井には汲み取ることができなかった。そんなことないんじゃないのか、とも言ってやりたかったが、過去の一つも話したことがなかった赤井はただ黙るしかなかった。 「時が解決するなんて言いますけど、僕とあなたの間に誰かの死が存在する限りそれはありえませんよ」 シャツのボタンを一つ一つ丁寧に外していき、露わになった素肌に直接触れられる。左側の心臓の辺りにぴたりと降谷のさらりと渇いた手のひらがひっついた。あたたかくも冷たくもない。 遠い昔に出した結論を降谷は知りたがっていた。そうして降谷が何を言っているのか理解しているのに、赤井はそれを与えることをしなかった。お互い持ち合わせている答えが必ずしも一致するとは限らないからだ。 「いつだって物語のキーはあなたが持っていて、あなたはあのときあの場所で舞台に立たされ、そのセリフを読み上げたのでしょう?」 赤井の中でいくつかの場面が脳裏によぎり、それでもその行動と結論に悔いがないのを再確認して、時折思い出の中に浮かんでは消えていく彼を思った。俺は俺だし、君は君でしかない。それを多角的に見たら、あらかじめ用意されたシナリオに沿って動いているようにも見えるかもしれない。 「演じているのは君も一緒だろう」 そうですね、という返事の代わりに口元を歪ませて、降谷零も安室透もバーボンも一緒くたにした彼が、静かに笑んだ。 「今から僕はあなたを抱きますけど、少しは抵抗してくださいね、人間らしく」 冷たく青く燃える炎にガラスのように繊細な瞳がふたつ、薄暗い夜に浮かんでいる。手を伸ばしても届かない、遠くの星みたいだ。 怒っている、悲しんでいる、苦しんでいる、そういう振り幅の大きなエネルギーを受け取りながら、それを了承した。 「君が俺を揺らしてくれたらそれでいい」 その感情で俺を呪い殺してくれ、そんなふうに赤井はどこか苦しそうに笑ってみてる。そうして呼吸を楽にして力を抜き、体を弛緩させた。その態度に降谷は余計苛ついて、自分がしていたネクタイをほどき、赤井の両手首を上にして縛りあげた。行為をしている間、赤井は一切抵抗しなかった。 降谷から与えられるすべての感情と指の唇の舌先の感覚を享受し、声で体でレスポンスを返す。赤井は確かに気持ちが良かった。体は痛がっていたけれど、与えられているという事実に嬉しさのほうが勝った。 体の覚えるものは、正直でいいな。心よりずっと単純で回りくどくない。少しの間目を閉じて、びくびくと震える神経の反射と、粟立つ皮膚の感覚を楽しんだ。手酷くしたいという意思が明確で、なのに快楽も同時に与えようとする降谷は甘くて優しい。 「痛いでしょう、痛くしてるんですよ、わざと」 無理矢理挿入されると、じわ、と生理的な涙が滲む。へんな呻き声が響いてしまい、いよいよ萎えるのではと思わないでもなかったが、降谷は興奮していてそんな様子は微塵も見受けられなかった。 「ほら、あなたにも涙が流れるんですね、人間だって証拠です。よかったですね」 医師が患者に言うような温度だった。右目の端から一筋流れていった涙を指の腹ですくい、降谷は味見でもするみたいに舐め取ってみせる。 ぼやけて滲む世界の中で彼だけがたった一人、孤独に見えた。その虚しさの行く末を知っている気がして、赤井はありったけの言葉を選ぶ。動きを再開し、激しく打ち付けるように体で伝える降谷とは対照的に、赤井は言葉で伝えようとしていた。生きとし生けるものの中で人間にしか許されていない方法だ。 「君の、言うとおり……俺は本当の君を、知らないかも、しれない」 ぐしゃぐしゃに乱され喘ぎながら、それでも喜びを隠し切れないなんて、あわよくばそれすら伝えてしまえないか、なんて、思うこと自体間違っているのかもしれない。 「でもおれは……俺は君が、ほしい」 両手が自由なら、抱きしめられるのになと赤井は思う。降谷はそれを聞くや否やカッとなり気が触れて、瞬時に殴りかかろうとした。しかし腕が振り下ろされる寸前でそれはピタリと静止した。顔色ひとつ変わりやしない赤井には、もう怖いものなんてなにもなかった。 視て読み取れるものと、内側に潜むやわらかで掴みきれない、すべて。そういう魂にほど近いものに、さわりたかった。降谷は自身の性器を引き抜いて、肩で息をしながら青白い唇を震わせる。 「僕は静かにあなたを壊したいだけなのに」 吐き気がします、と興醒めした様子で拘束していたネクタイをほどき、赤井の両腕を自由にしてやった。赤井はくたくたになりながら起き上がり、最後の力でようやく降谷を抱きしめる。 「……こんなふうに君を抱くつもりじゃなかった」 「抱かれたのはあなたでしょう」 降谷は自分の感情をうまく制御できないみたいだった。意図的に封じてしまうことで精神のバランスを取っていたし、本当はいつでも何かに脅えていた、自分の心の動きを認めずに、強がっているのだ。感じるままのお前の心が本当だろう、どうしてそれを信じられない? 赤井はそんなふうに思うが、今の降谷にそれを投げかけたところで通じはしないと判断していた。解いて溶かして時間をかけてゆっくりと、確かな愛を持って、抱きしめてやりたかった。いつまでもそうしていたら降谷の体は次第に脱力し、枯れた花みたいに肩に額が置かれた。 「ねえ知ってます? 零かける一は零なんですよ。あなたの名前と僕の名前を足したって、一にしかならない」 ぼそぼそと生気のない声が鼓膜を撫でていく。いつしか自分は死神に取り憑かれているのだ、と言っていたことを思い出す。周りを不幸にする天才。 「それでも、君と俺で一にはなるんだろう」 「……あなたにとってはマイナスですよ」 諦めが早いのが彼の悪い癖だった。降谷の中では絶対的に未来は変わらない、変えようとも思わない。 「構わないさ」 赤井は欲しいものは欲しいと言える男で、だからそんなふうに簡単に受け流してしまえた。赤井のあまりに前向きなところが本来、降谷の性には合わないのだ。 どうして? その問いを一度でも赤井に向かって口にできたらよかった。苦虫を噛み潰したように渋い顔をしている降谷は、ずっと赤井の真意がわからなかった。思いつく限りの悪意と殺意と愛情でもって傷つけてやりたい、目的はたったそれだけだったので。 「あなたの中から一が欠けて、ようやく僕が満足するなら、最後に残りの俺をくれてやってもいい」 あなたのその一生の一、と呟きながら、降谷はまあるい地球みたいに青い瞳で赤井を見つめあげた。他の誰にも負けないくらい、強い眼差しだった。赤井はたったそれだけでたまらなくなってしまう。 美しい曲線を描く降谷の顔の輪郭を無骨な手のひらで包み、返事の代わりに優しく口付けた。触れあって探りあってわかりあって、もう一度抱き合える日が来る、赤井はそう遠くない未来でそれを待つ。 # あなたの中に降るわずかな私について |