まず目に飛び込んできたのはあまりに頼りない、小さな手のひらだった。 江戸川コナンはどこにでもいる小学一年生で、わけあって毛利家に居候させてもらっている、阿笠博士の遠い親戚。これらはすべて、仮定とするべき現実だ。 あの日あの時、半径一メートルだけ時が十年巻き戻って、自分の体だけは子供に逆戻り、愛する女にいくつ嘘をついたかわからない。こんな姿ではほとんどの人が自分を工藤新一だとは認識しないだろうし、それを信じる者はあまりに純真か頭がイカれてるかのどちらかだ。 毛利家の布団に包まってオレンジに光る常夜灯を見るとき、コナンは自分の人生を少しだけ思い返す。嘘で塗り固めた江戸川コナンという仮の存在は、いつか大人になっていく少年少女の心を傷つけるだろうか。明日、目が覚めたら十七歳の自分より何回りも小さい服を着て、ランドセルを背負い、度の入っていない眼鏡の薄っぺらいレンズ越しの世界で生きていく。 この姿になってみて踏み出す一歩の小ささにも驚いたが、高校生の自分には見えていなかったものが見えるようになった。背丈が変われば目線も変わり、周りの少年少女と居ると世界がとてつもなく鮮やかに映る。 雲ひとつない晴天の抜けるような青さ、春先に芽吹く緑、沈む夕日の強烈な赤さ、そういう色彩に囲まれながら子供たちは自然に身を置き、様々なことを学んでいく。雨の日にはカタツムリがいないか草むらの中を探してみたり、つつじの花の蜜を吸って笑い合い、公園で木の枝を集めて秘密基地を作る。学校の花壇に咲いたマリーゴールドの花、人間に踏まれたカマキリの死骸、団地のヒビの入った階段、庭の池にはカエルの卵に孵化したおたまじゃくし。図鑑にあるものには一通り触れた気がする。俺は今まで平気で届いていた書斎の本も満足に取れないというのにね。父親の書斎で、本に手を伸ばしながらそういうことを思い出していた。 ふいに後ろからゆっくりと影が伸びてきて、大人の長い指が自分の欲しかった本を引き抜いていく。 「これですか」 大学院生の落ち着いた声はコナンを現実に引き戻す。差し出された分厚い本を受け取り、重みで落とさないように胸に抱いた。 「ありがとう、昴さん」 沖矢は返事の代わりに微笑みかけて、くるりと背を向け歩き出した。履いているのは来客用のスリッパで、ぱたぱたとかわいらしい音を立てながら書斎机へ向かう。男はこの家の主ではなく、客人だった。後を追えば、カルガモの親子みたいになってしまってなんだか気恥ずかしい。椅子に腰掛けるのを見届けると、常時細められた瞳のごく僅かな隙間でアイコンタクトを交わした。机の上には文庫本とコーヒーの入った赤色のマグが置いてある。 「おいで」 文庫本を片手に携えて、沖矢は目もくれず言った。膝の上によじ登れば、コナンは満足げにふふんと鼻を鳴らし、工学部の学生にしては鍛えられた胸板を背にして読書を始めた。 「今朝、毎日水遣りしてた朝顔が咲いたんだ」 十年ぶりにつけた観察日記の出来栄えはいかがなものか。夏休みの宿題を写させてくれる幼馴染は今や高校生。預かっている子供が工藤新一とも知らず、ちゃんと宿題に手をつけているか見に来る始末だ。こうして江戸川コナンは小学一年生であるという事実だけが残る。 「ぞうさんのじょうろ、昴さんも使ってた?」 木馬荘での暮らしはどのようなものだったろう。庭の植物に水をやっていたと言っていたけれど、そもそもこの男が大学院生として生活しているところが想像できない。 「……懐かしいですね」 沖矢昴も──赤井秀一としてだろうけれど──小学生だった頃があるのだろうか、やっぱり想像できない。咲いたのは朝顔だけじゃなく、通学路にある背の高いひまわりはぐんぐん伸びて、つい先日コナンの身長も追い越してしまった。見上げればひこうき雲が白線を描いていて、ぼうっと眺めていれば幼さの残る甘い声がコナンの名前を呼ぶのだ。虫取り網に麦わら帽子、海にキャンプに線香花火。いつだって夏は子供たちのものだった。 せっかくの夏だというのにこの部屋は空調が効いていて暑くもないし、防音が完備されているので昔から蝉の鳴く声すら聞こえない。なんて贅沢だろうとコナンは思う。新一ならば思わないようなことを、思う。ここではもはや本のページを捲る音しか聞こえない。時折揺れる髪が顎に当たってくすぐったいらしく、くすくすと笑う吐息が聞こえてきて、からかうように頭をぐりぐりと押し付けた。 「君のつむじから、太陽の匂いがします」 喉につけられた変声機から発される声は偽物なのに、ひどく穏やかで心地よい。そういえば昴さんの季節外れのタートルネック、今日は何色だったかな。後ろから感じる体温があたたかくて、コナンは急な眠気に襲われる。開いた本もそのままに、くたりと体を預けてしまえば休日の昼下がりの完成だ。うつらうつらしていれば背後の男はなぜか上体を起こし、後ろからコナンをぎゅうと抱き込んで、備え付けの引き出しを開けて何かを始めているようだった。テーブルの上でごそごそと作業を終えると、ジッポのライターの着火音が聞こえてくる。ふっと息を吐くのがわかって、ずいぶんと嗅ぎ慣れた匂いがするなと思えば、父親のパイプ煙草の匂いだった。 「作家の人生とはどんなものでしょうね」 沖矢はパイプ片手に挑発するような物言いをしていて、まるで君ならわかるだろうと、その背中を見てきたのだからとでも言いたげだ。 「なんのこと」 コナンは目を擦ってとぼけてみせる。もくもくと吐かれる煙が目に染みた。自分がいない間も、優作の書斎でこんなふうに本を読んでいるのだろうか。 「もう少し寝てもいい?」 「……ああ」 首元でカチリとスイッチの押す音がして、別の男の声が聞こえた。本物の声帯が震えた音だった。背後でべりべりと仮面が剥がされていき、ついに男の素顔が露になっていく。見ることができなくて残念に思っていたら、男はコナンの頭に鼻を寄せ、すんと匂いを嗅いだあと、何を思ったのか頬にひとつキスを落とした。どうしてそのようなことをされたのか、いまいち事態が飲み込めない。 「あかいさん……?」 男の指先が子供の手をやんわりと包み、それから少しのやましさを込めてふっくらとした指を撫でていく。小さな手のひらに、小さな体、すべてを読み解く聡明な瞳。ぎゅうと音が鳴るほど抱きしめたら、折れてしまいそうだなと赤井は想像をする。 「おやすみ、ボウヤ」 男は抱きかかえた子供の体温を味わいながら、再び文庫本を手に取り、物思いに耽る。低く呻る獣の声だけが、いつまでも子供の耳に残った。 * * * それから数ヶ月も経たないうちに、二人の関係はおかしなことになった。トリガーはどちらが引いたのか、きっかけは何であったのか、もうよく思い出せないし、あえて明確にしなかった。互いに共犯者であることを二人は選んだのだった。 「毎週土曜日、保護者には何の用事と?」 書斎の机で、ダイニングキッチンで、リビングで、客間で、新一の部屋で、二人は土曜日が来るたびその行為を行った。 「いけないことするためなんて言えないからね」 大人の長い指を口に含んでセックスの真似事をしたり、ちゅっちゅっと露出した肌に音を立ててキスをして、一方的に性感を高めたりしていた。高揚し、子供の赤く火照る頬を見て沖矢は妙な色気に当てられてしまう。沖矢の、顔色だけは変わらないのに、それ以外の部分が熱を発散したがった。男の性欲を弄ぶことなんて思いのほか簡単で、性的興奮を与えれば性器はすぐに反応を示すし、射精に導くこともそう難しいことではなかった。動物的本能って何なんだろうと、不毛に死んでいく沖矢の精子を思ってはコナンはそれをティッシュに吐き出して屑籠に捨ててしまう。 「ねえ、昴さん」 氷のような冷たい目で、コナンは時折、沖矢を射抜く。いまこの瞬間、沖矢昴は江戸川コナンに謎を解かれているのだ。 「……喋らないで」 膝に乗り上げてチョーカー形変声機を外し、静かに笑みを称えた。ペドフィリアの気も無いのに目覚めさせてしまったかなと、コナンは沖矢を哀れに思った。 江戸川コナンは犬を飼っている。周りの少年少女には絶対見せられない、躾のなってない大きな犬。 * * * 季節は巡り巡って、コナンは中学生になった。背丈も昔よりずいぶん伸びて、脚立に上らないでも書斎の本を取れるようになった。声変わりを迎えたコナンはいよいよ工藤新一の姿に近づき、けれどそれを疑う者はいなかった。 「俺はこのまま、江戸川コナンとして一生を終えるのかな」 薄暗い部屋の中で生気のない目をして、彼はぽつりと呟いた。沖矢は子供の心が痛み、傷ついているのを知る。 「ねえ、昴さん。僕がつけた名前、気に入ってくれた?」 炎の中で死に、炎の中から蘇る。目の前にいる人間はそういう男だった。沖矢昴が赤井秀一を殺したのか、赤井秀一が沖矢昴を殺すのか。江戸川コナンになってから、そういうことをずっと、考えていた。 「もちろん気に入っていますよ」 これは、沖矢昴としての模範解答だ。 「昴さんも皆を騙して生きていくの? 僕と一緒だね」 これもまた、江戸川コナンとしてのひとつの回答だった。 数年前、まだ彼が七歳だった頃、彼とセックスまがいのことをした。何度も何度も飽きるまで行って、実際に飽きて、満足したので二人はそれをするのをやめた。 初めて彼の素肌に触れたときもそうだった。遠い目をして、もうこれ以上心が砕けることもないのだと、寂しげに笑う彼を見て沖矢は加担した。全てを諦めた彼がどうすることもできないと言うなら、一緒に落ちてしまえばいいと思った。そういうものをまた、はじめようとしている。 「昴さん、僕、精通したんだ」 彼の白いワイシャツが、ぱさりと渇いた音を立てて床に落ちていく。子供の裸体は何度見ても美しく、決して汚れを知らないわけではないのに、神聖なもののように思えた。 「ねえ、お願い」 悲痛な叫びを耳にして、彼の細い身体を抱き締めずにはいられなかった。 彼は何をした? これはなんの罰だ? そうして俺は彼に何を? 沖矢は顔色一つ変えずに微笑んでみせる。赤井秀一だったら江戸川コナンを抱かずにいられただろうか。沖矢昴は、沖矢昴として考える。彼と同じ度の入っていない、古ぼけたレンズ越しにそれを捉えてしまう。目の前にあるのは熟れすぎた果実だ。 沖矢は仮面を付けたまま、嘘偽りの顔で子供のやわらかな心を犯す。正しさも間違いもない、そういう世界で息をしていた。共犯者の二人は、もうどこにも逃げられやしない。 # 共 犯 者 |