記憶とは人にとってどのようなものだろうか。平均値よりいくらか優秀だった降谷は、きっと人より多くの記憶を所持している。覚えていることと、忘れてしまったものたち。降谷だって人間であるから、全てを覚えていられるわけではない。記憶から抜け落ちた物事はどうなるのだろうか? なかったことにはならないというのに、誰かの記憶が生きていて、誰かの記憶はとっくに死んでいる。人と人とはそういうもので成り立っている。 降谷にとって記憶とは、ただただ白い雪のように降り積もるものでしかなかった。そこに感情を混ぜないように、なるべく距離を置いてきたのだった。 しかしあるとき、感情なしでは図れない一つの物事があって、降谷は時折、当時のことを思い返したりする。……過去は積み重なって今がある。それは誰しも平等に訪れる、存在がなくなってしまわない限りは。 あいつにとって、心の支えになるようなものはあったかな。バーカウンターに腰掛けた降谷は、店内に飾られたボトルをぼんやり見つめながら、隣でウィスキーを嗜む男に意識を向けた。 ねえ、赤井、とその名を呼ぼうとして、用件もないのに何を話すつもりなんだろうと、ふと我に返って開きかけた口を閉ざした。 考えてみればみるほど、話すべきことなんて何もない。赤井は今も昔も変わらず黒色ばかり身にまとい、飽きもせずニット帽をかぶり続けていて、そんなたわいもないことを揶揄してやればよかったかなと今更思ったりしていた。 意味もなく視線を送って数秒、バチンと目が合い、ぱちんと瞬きをひとつしている間に事件は起きた。右の目にやわらかな何かがかすめ、気がついたら赤井の顔が至近距離にあって、身を引くようにゆっくりと遠ざかっていく。不意打ちに落とされたそれを、どう捉えたらいいのかわからない。赤井は俺に、何をした? 「すまない。君の瞳がきれいで、それで……忘れてくれ」 赤井も自分のしたことに改めてはっとしたようで、照れているのか、珍しく耳まで真っ赤になっている。 目をぱちくりとしながら降谷は考える。──忘れてくれ? 言葉の真意を掴みかねる。赤井は俺にキスしたことを、本当になかったことにするつもりなのだろうか。 「忘れていいんですか?」 「……ああ、そうしてくれ」 ほっとしたように肩を撫で下ろして、なんだか少しだけ切なそうに顔を歪めている赤井を、降谷は記憶した。 もしも本当に忘れてしまったら、思い出せなくなったら。赤井はまた俺にキスするのかな。 赤井は呷るようにウイスキーを飲み干して、ふうと一息ついた。溶けかけの氷がからんと小気味のいい音を立て、結露した水滴がコースターにじわりと染みていく。まるで赤井の心情みたいだと降谷は思う。見た目にはおくびにも出さないが、無意識のうちに手が出てしまって、今頃変な汗をかいてるんだろうな。そんな気がする。 ──赤井秀一の過去ばかり好きだった。思い出にしてしまえば、ぜんぶ美しいから。出来事は物質になって、一つのフィルムに焼かれて頭の中の小さな引き出しにしまわれていく。……過去は裏切らない。俺は二度とお前に、裏切られないんだ。 赤井秀一とはもとより惚れっぽい性格だ。浮気性なわけではなく、純粋に一人の女を愛していた。自分の気持ちに順従であるから、時々本当に何も考えていないで事を進めてしまう傾向がある。このように赤井秀一という男を、俺は正しく理解していた。 なのに、忘れてほしいだなんて。起こってしまった現実は二度と覆らないのに、てんでおかしな話だ。赤井が俺を好きになったことをなかったことにしたいなら、俺は赤井に関する俺のすべてを忘れたい。ずいぶんと昔から告白がしたかった。あなただって俺だって、忘れてしまいたいのでしょうと。 カンカン、と音を立てて早足で階段を登っていくと、自然とあの日のことが思い出される。 ビルの屋上で、決して安全とは言えない錆びた柵にもたれ掛かって、赤井は待っていた。寒いだろうにマフラーも手袋もしておらず、いつも通りの格好で煙草をふかしている。 弾んだ息を整えながら近づいて、赤井のすぐ隣で景色を眺めた。見上げた空は曇天だ。どんよりとした灰色が一面に広がっていて、十二月の湿った匂いが鼻についた。今夜の天気予報は雪。都会の雪は全然ロマンチックなんかじゃない。そもそも積もらないし、今日なんか降ったとしてもみぞれだろう。現実は誰かに踏まれ、泥に溶けて、汚されておしまい。 腰までしかない柵から身を乗り出せば、地上三十メートルといったところか、それでも歩いている人が小さく見えた。いっそここから落ちてしまおうか、そうしたら俺は赤井の永遠になれるかな。報復みたいで悪くない。 「忘れてほしい、って言ったじゃないですか」 赤井は返事の代わりに吸っていた煙草を携帯灰皿に押し込んで、ふっと息を吐く。赤井の息の白さを見て、なんだか無性に嬉しくなる。寒空の下で赤井を待たせるのはどこか優越感があった。 「だからあなたのこと、きれいさっぱり忘れました。あの日のことももう何も思い出せない」 消去してしまえば、もう二度と思い出さなければ。降谷はそれを本当にしたかった。子供の言い分に赤井は思わず苦笑するが、口を挟まず最後まで聞いてやることにした。 「他のなんにも興味がないんだ、ただもう一度、キスしてほしい。……それだけ」 過去になる前に今を忘れて、そうしたらこのままずっと浮遊していられる。 しっかりと向き合えば、驚いて見開かれた赤井の緑の瞳が揺れていた。その日初めて、降谷は緑に染まる自分を見た。 「ねえ、あかい」 ぎゅうとジャケットの袖を掴んで、白痴のように覚えたばかりの名前を呼ぶことしかできないでいた。決して縋りたいわけじゃなかった。降谷は自我から生まれる感情を放棄したかった。できることならすべてを消したい、それができないのであれば、上書きして赤井のことしか考えられなくしてほしい。キスをしてもセックスをしても、付き合っても別れても、たぶんおおよそ何も変わらない。降谷の人生にとってそれはあまりに些細なことだった。 事象だけが積み重なって、蓄積されていく。それはもはや誰にも止めようがないことなのだ。 # マイ・フィクション |