いつからだろう、降谷零という男が、自分だけを見ればいいと思うようになったのは。
はじめこそ面倒なことになったと思った。赤井にとっては所詮その程度で、何が起きるわけでもなしにと降谷の存在を気にも留めていなかった。しかしながらそれは一転し、本気で命を狙うつもりもないくせに、しつこさだけは人一倍、人一倍どころではないくらいの執着で追いかけ回されて、正直なところ赤井は辟易していた。
降谷は時間があるのか行く先々で赤井を尾行、あわよくば危害を加えようとしており、路地を歩いていて突然、花瓶が空から落ちてきたこともあった。なかなかに古典的な手法だ。花瓶に入っていた赤い花が一輪、アスファルトの上で陶器の破片と共に萎びているのを見せつけられて流石に気分が悪い。そうして連日、白い車がぴったりと後ろをついて離れず、苛立ちでどうにかなりそうだった。撒けなくもないけれど降谷相手では労力を使いすぎるので、赤井はそのまま自宅へ戻ることにした。自宅といっても本当の自宅ではなく、必要最低限の荷物だけ置いてあるマンションだ。
地下の駐車場で、二人はついに顔を合わせた。赤井は自分の車をロックし、近くにある降谷の車のウィンドウを叩けば、話す気だけはあるらしく窓ガラスが降りていく。
よく見れば灰色のスーツはくたびれており、ネクタイは緩めてすらいなかった。赤井は上品なシルバーのタイピンを睨みつけて、それからやっと降谷に視線を向ける。降谷は見るからに不健康そうな顔色をしていて、ろくに寝てないのだろう、目元にはうっすらと隈ができていた。
「そろそろやめにしないか」
「何のことです」
珍しく赤井は苛立ちを露わにするように地団駄を踏み、ウィンドウから腕を突っ込んで車のエンジンを切った。
「君のその態度だよ」
そう言い放ち、車のキーを強引に奪い取って歩き出した。そうして通用口の扉の前でようやく振り返る。後ろには誰もいない。
「何してるんだ」
「何って、返してくださいよ」
打ちっぱなしのコンクリートでできた駐車場だったので、反響した声がこだまする。運転席から手だけ出す降谷に、いいから来い、とでも言うみたいに顎でその扉を指した。仕方がなく降谷は車を降りて、赤井の手にぶら下がる鍵を取り返そうと躍起になる。
「……茶でもどうだ」
鍵をつまんで宙に浮かせながら、赤井は自分でも何を言っているのかわからなかったが、それ以上に何もかもがどうでもよくなってしまった。茶? 茶だと? 茶番の間違いかなと脳内でフォローを入れる。
「はあ? あなた正気ですか?」
降谷の言い分はもっともだ。しかしながら赤井は本当にうんざりしていたので、よくある海外ドラマみたいに大げさに肩をすくめてみせる。
「俺は疲れたんだ、もういいじゃないか」
返事より早く降谷の右ストレートが飛んでくる。じゃれあいのような肩慣らしの攻防を続けて、赤井は自分の部屋へ降谷を誘導した。なんとか玄関まで連れてくると、降谷も構えを解いて、なぜか不満げに床の一点を見つめていた。その姿はどこか幼い子供のようにも見えた。いつまでも入ろうとしないのでそのまま腕を引っ張って、脱げかけた靴が通路に落ちるのも気にしないで寝室へ向かう。
「君も俺も、体が疲労で限界だ」
ベッドに押し倒すと、思いのほか降谷は簡単に転がった。借りてきた猫のような大人しさに赤井は違和感を覚える。覚えるが、降谷の色素の薄い髪が布団の上に散らばっていくのをただじっと眺めていた。率直に、きれいだなと赤井は思う。
――互いに、初めて会った時から例えるなら水と油のようだと認識していた。髪の色から、肌の色から、好きなものや嫌いなもの、便宜上明るく振る舞い社交的に見せかけている降谷と、口数が少なく闇に属していそうな赤井と、内面については思いのほか赤井が根明で降谷が根暗なところまで。
豪快に鳴ったスプリングがおさまった途端、居心地の悪い静けさが二人を襲った。これが男女なら情事が始まるところだが、二人の目には体調不良で血色の悪い男がそれぞれ映し出された。
「……シャワー借りたいんですけど」
赤井はいつまでも降谷の顔を覗き込んでいて、改めて整った顔だなとぼんやり考えていた。毎回向けられていたのはきれいな青に、グレーを帯びた強い閃光。
「俺は朝派だ」
「そんなの知りませんよ。勝手にさせてもらいます」
降谷は赤井をぞんざいに除け、本当に勝手にクローゼットを物色しはじめた。バスケットに積まれている服を見てまず舌打ちし、その上黒ばっか、と文句を垂れながら何着か掴んでおそるおそる匂いを嗅いだ。そして去り際に、ねえこれ洗濯したんですよね? もうなんでもいいですけど、と馬鹿にしたように鼻で笑ってから、はあと盛大にため息をついて出て行った。ため息をつきたいのは俺のほうだと赤井はあまりの態度に呆然として、倒れるようにベッドに寝転がった。背の高い男が両手両足を広げられるほど大きな、寝心地の良いベッドだ。これにして本当によかった。ちなみにバスケットに入っているのはコインランドリーに行った後、そのまま放置していた服なので洗濯済みです……
嵐の前の静けさのようで不気味に思いながら、疲れ果てた赤井はそのまま眠りについた。まさか寝込みを襲うなんて卑怯なことを降谷がするはずもないという確信があったからだ。

「赤井」
気配を殺さずに近寄る降谷が何をしでかすかわかっていながら泳がせた。その結果、首元にナイフを当てられ、赤井はブチ切れた。何考えてんだ。
「それ以上するならテメエを犯す」
ドスの効いた声を久しぶりに出した。降谷の手を掴むとあっけなくナイフは床に落ち、降谷の力の抜け切った手首がふにゃりと弛んだ。口をついて出た言葉は犯す、だった。赤井は降谷を殺すことはできないからだ。
ベッドに乗り上げた降谷は黒色のシャツと下着だけ身につけており、これではまるで娼婦のようだと赤井は思う。
「……スコッチとしたときみたいに、ですか」
抑揚のない声が赤井の鼓膜を突き刺した。不意打ちで囁かれた言葉は遠い昔の出来事を思い出させるには十分で、二度と思い出すこともないと思っていた赤井は眩暈を起こしそうになる。
降谷はいつまでも俯いたまま、シーツの皺でも数えているみたいだった。泣くのかと思ったけれど、降谷はそんなにやわな男でもないだろう。

――昔、死んだ男と寝たことがある。
なんてことはない会話の流れだった。女みたいに長い髪、と無精髭を生やした男は言った。男はなんだか曖昧な笑い方をしていた気がするが、記憶の中のことなので、どんなふうに笑っていたのか今となっては迷宮入りだ。その発言は不思議と嫌味には聞こえず、かといって冗談を言っているわけでもなさそうだった。今思えば口説かれていたのかもしれない。真意が掴めないまま、すらりと伸びた黒髪に触れられ、女を扱うみたいに口付けが落とされた。
何か伝えたほうがいいのか、果たして何を言えばいいのか、ライはわからなかった。気持ちがいいわけでもないし、悪いわけでもない。
男の大きな手のひらが首に巻きついて、親指が喉仏に触れて、うなじから髪をかき上げられる。もう片方の手で煽るように尻から背骨をなぞり、腰を押し付けられるとようやくその意味がわかった。男からは、夜の匂いがした。
組織に用意された部屋で、ライとスコッチは暇を持て余していたのだった。そこまで酔っているわけでもなかったが、まぐれというか気まぐれというか、誘いを断るのも野暮かと思ってしまったのだ。後にも先にも男と寝たのは一度きり。
……スコッチは強くて優しい男だった。女と子供には容赦をする、例えるならとある有名なアニメに出てくる大泥棒に似ている。羽織るべきは赤いジャケットに黄色いネクタイだが、全くもって似合いそうもない。また、バーボンはスコッチにだけ肩入れする節があり、それを周囲に悟られないようにしていたのをライは見抜いていた。
スコッチとはどんな人間だったのだろう。からっとしていて春の陽気がよく似合う、ちょっと変わった男。俺を抱いた、変な趣味の男。降谷ならもっと、知っているのかもしれない。
果てしない想像と、共に過ごした僅かな時間と、肌に触れてその体温が人よりずっと温かかったこと、キスが無駄にうまかったこと、そういうものが、洪水のように溢れ出す。

「まさか君、男を抱く趣味が?」
降谷は氷のように固まり、しばらく経ってから首を横に振った。
「……それでも俺は、あなたが憎い」
目に強烈な青い光を宿して、歯向かってくる。たったそれだけの、永遠の一瞬が美しいと思う。そういえば、死んだ男も似たような瞳の色だったな。誇り高く、甘くて優しい柔和なブルー。
降谷の震える指先が、赤井の胸に辿り着く。ちょうど左の、スコッチが自分で撃った心臓の上。それが何を意味しているのか、答えも結末も知ってのことか、赤井には理解できない。悲しいだろうが辛いだろうが、赤井はこれ以上話すつもりもなかった。
「口を割らないなら、俺のために死んでもらえませんか」
いつの間にか降谷の両手が喉元に巻きついて、絞殺をかまそうとする。あまりに熱烈なラブコールに、赤井はうんざりしながら笑ってしまった。左手で猫っ毛の髪を撫でてやると、降谷は唇を噛んでやり過ごそうとする。
「君にはできないよ」
そういうものだと、わからせてやりたいのに。
「それ」でいいだろう、「どれ」も変わらないだろう、何を選んだとしても、君にとっては。そういう赤井の傲慢さを、思い込みと決め付けを、閉じ込めておきたい真実を、降谷は暴こうとしていた。複雑に絡まった糸は簡単には解けない。赤井が閉じ込めておきたかったのは、真実だけではないというのにね。

降谷の二つの瞳が、静かに青く燃えている。青い炎だけが確かに、赤井を射抜いた。

# 青い炎