玄関からがさごそという聞きなれない音がして、洗い物を片付けていた降谷はなんだろうと不思議に思いながら、皿を食器棚にしまった。ぴかぴかに磨くでもないそれは、安室透ならばもっと几帳面に管理するのだろうなと降谷は自身を省みる。実際の降谷の私生活なんてそんなもので、一人暮らしの頃は最低限の生活が成り立てばいいという考え方でもあったし、眠る以外に家にいることもほとんどなかった。 それが今はどうだろう。フローリングの2LDK、それぞれの部屋はきれいに片付けられており、広いリビングには大画面のテレビから二人掛けのソファまであるという。どちらかというと、いつ互いがいなくなってもいいように、グレードはそこまで高くはないごく一般的なマンションを選んだけれど、当初の予定よりずいぶん贅沢なものが出来上がりつつある。 赤井と生活を共に始めて数ヶ月経つが、なんとかうまくやっていけている。たびたび喧嘩はしたけれど、所詮その程度だ。大概は赤井が折れたし、降谷に非があれば翌日虫の鳴くような声でごめんなさい、と謝ることができた。赤井は慈愛に満ち溢れる、いっそ孫でも見るかのような目をしてそんな降谷を受け入れる。赤井はもとより根が優しく、素直な男だった。いつでも強がる降谷を甘やかすことも得意で、好きになったこちらの負けだと降谷は白旗を上げるほかなかった。 いついなくなってもいい、というのは、互いに機密性の高い仕事をしていることと、命が狙われた場合にどこへでも逃げられるように、という意味だ。本当に帰らぬ人となったらそれまでの話で、それはそれで仕方がない。 愛や恋というものを、形として当てはめられなかった――日本では同性婚が認められていないこともあったが、それ以上に今の関係を言葉で的確に表すことすら困難だと降谷は感じていた――ので、いつ赤井が他の人を好きになってよそへ行ってしまうとしても諦めてしまえる、そういう覚悟があった。ここに来るまでに色んな譲歩があった。50:50ではない条件を飲んでもらっている手前、今があるだけで十分だと降谷は思っていた。 休みの日には、昼過ぎにそっと家を抜け出す赤井を知っていた。どうせ煙草を買いに行っただけだろうと踏んでいたが、今日は違ったようだ。リビング戻ってきた赤井は、なぜだかぱんぱんに膨らんだ紙袋を抱えていた。そうして心の奥底で、赤井が帰ってきてくれたことにほっとしている自分に気がつく。 「それ、どうしたんですか」 「もらった。……ご近所さんに」 ご近所さん、という覚えたばかりのワードをさっそく使ってみたかったのだろう、どこかぎこちなく、けれど嬉しそうにはにかんで赤井は言った。紙袋の中には、溢れんばかりの桃があった。あなたってそういうところありますよね、と何も考えずに呟くと、赤井はまるで何も知らない子供のように首を傾げるので、そういうところも含めてだ、と降谷は小さなため息をついた。 赤井秀一という男はスナイパーというだけあって、連邦捜査局の人間というよりはどちらかというとテロリストみたいだったし、昔はナイフのように尖っていて、おどろおどろしく怖い目つきをしていた。時間が経つにつれて丸くなったのか、柄の悪さは抜け、ずいぶんと柔和な雰囲気になったものだ。一周回って純粋無垢なところすらあった。ご近所さん、とやらにも気さくに声が掛かる程度には。 「食べごろですね」 一つ取り出してみれば、熟しきっていて指で押せば今にも形が崩れてしまいそうだ。ふわりとした産毛の手触りに、桃の甘く優しい匂いが漂ってくる。降谷はさっそくくだものナイフでするすると皮をむき、手際よくカットしていく。あっという間につややかな白桃が姿を現し、それらは円を描くように盛り付けられていく。赤井は料理人のような手さばきに見惚れ、完成といわんばかりにデザートフォークが添えられるところまで見届けると、ふと思いつくことがあった。 零くん、と恋人が桃のように甘く囁きかければ、降谷の肩がびくりと跳ねた。いつまで経ってもそういう初心な反応がかわいくて、これだからからかうのをやめられない。赤井は紙袋から桃を一つ取り出し、てっぺんに小さく傷をつくって丁寧に皮を剥いた。 「こうやって、このまま食べるのも」 台所で、五月の初夏ののどかな休日、なんてことはない日常の中で、時が止まったかのような錯覚がした。赤井の睫がわずかに震えて、恋焦がれた左の指先がやわい桃に触れる、そんなたったひとつの動作に目が奪われる。 剥きだしになった桃の果実に、赤井の小さな口がかぶりついた。目を細めて、まるでキスでもしているみたいに恍惚とした表情を浮かべ、そのうちに喉仏が上下に動き嚥下したのがわかった。視覚による暴力だ。味覚がいつの間にか伝染して、降谷の口の中までじわりと甘さが広がり思わず唾を飲み込んだ。ぼたぼたと垂れる桃の果汁が赤井の指先をよごして、いやらしいのに、ひどくきれいだ。濡れた指先を赤い舌先で舐め取り、ふっと小鳥がさえずるように笑った。 自分の魅力をわかっていてあえてやっているのか、それとも無自覚でこんなにも無防備に色気をさらすのか、降谷にはさっぱりわからなかった。ただただ興奮と動揺がない交ぜになり、にっちもさっちもいかない降谷は耳を赤くして、そういう食べ方も、悪くないです、と零すしかできなかった。 「縁側があったらよかったんですけどね」 ベランダからそよそよと白のレースカーテンが揺れて、入り込む風と白んだ光が心地よい。 「言っておきますが、お寿司じゃないですよ」 「わかってるさ」 ソファで並んで腰掛けながら、さきほど切った桃を二人で食べた。他愛もない会話に、何も変わらない日々の繰り返し。こんなにも安らいでいられるのは、間違いなく隣にいてくれる男のおかげだ。 「……密かな夢です」 ぽつりと落ちたその言葉の意味を、赤井は正しく理解することができる。そうして、その上で返事をすることができない赤井は曖昧に濁してしまうしかなくて、降谷の俯きがちな、まあるい形をした後頭部を見やり、そっと手繰り寄せてこめかみに小さなキスを送った。 赤井の指にはまだ桃の果汁がついていて、髪がべたべたする!と降谷は大げさに騒いで、少しだけ泣きそうになる気持ちを抑えて、あなた、不器用なんですよ、嘘でもいいから同意してくださいと文句を垂れた。 でもそんなところが好きなのだ、と痛烈に思う。思うだけでそんなことは素面では言えないので、かわりに赤井の目を盗んで、頬にキスをお見舞いしてやった。 # 初夏の候 |