ハンマーで頭をかち割られたような、これまで生きてきた何もかもが否定されたときの感覚を、今もまだ覚えている。頭が真っ白になる、背筋が冷え冷えとして悪寒が走り、指先が震えて止まらない。父親と別の女性がテレビに映っている意味を理解した瞬間だった。
翌朝、いつも通り学校に行き自分の席に座ったときの、うつむいて見つめ続けた机の木目が忘れられない。まだらで薄汚れていて傷だらけ。まるで自分みたいだ。うまく前が向けない、友達も、家族も、先生も、大人も、誰一人信じられない。幸いいじめには合っていないが、それも時間の問題かもしれない。小さな虫が身体中を這うみたいにぞっとする感覚が湧き出て、その黒い影は四六時中、背後をついてきた。
世界が一瞬にして変わってしまったのだ。これから自分が生きていく世界は、こういうものなのだと痛切に感じた。

数年が経ち、逃げる癖ばかりついた俺は放蕩息子そのものだった。
屈折した自分を正せるのは父親だけだというのに、与えられるものは自慢話と大して面白くもない玩具ばかり。ほしいものなんて何もなかった。金ならせびればいくらでもあったし、手に入らないものはないように思えた。目に見えない、形のないものだけが手に入らない。なにもかもくだらないと思っていた。あの人に会うまでは。
千葉サロンと呼ばれる『別邸』を訪れる人物は様々で、芸能人やプロデューサーだけではなく、情報屋や薬の売人までいた。誰かの弱みを握ったり、人を裏切ったり、利用したり、生きている価値もない人間ってこんなふうに出来上がるんだって悲観しながら、いつの間にか自分もその色に染まっていた。誰も止めないし、見ないふりをし続けている。心底うんざりしていた。すべてのしがらみから解放されたい。
学校をサボってファミレスで時間を潰して、携帯の画面を見続けるのにも飽きて、帰りたくもない家の扉の前で立ち止まる。
ただ、遠くへ行きたい、と誰にも言えなかったたったひとつの望みを、形のいい耳が聞き逃さなかったのだ。
「じゃあうち、来る?」
透明なのに掠れてる、ハスキーがかったきれいな声がして我に返った。そこにはユキと呼ばれる人物がいて、自分が何を口走ったのか、数秒かけてようやく理解した。『誰かのために一生懸命になれる人』が、電話一本でまた汗だくになっている。
残暑の続く昼下がり、青空の下で軍手を外したユキはふうと息を吐いて、額を拭っていた。ほのかに上気した頬と、こめかみから流れる汗が顎に垂れていく。健全なはずなのになんかエロいなと不健全なことを考えていた。氷を思わせるような涼しげで美しい顔立ちと、泣きぼくろのせいかもしれない。この人には冬の朝みたいに澄んだ空気がまとうのに、その色は灰が降るみたいにどこかくすんでいる。肌なんか女みたいにきめ細やかで、薄い唇はあまりに繊細。初めて見たときから、この人の顔が好きだった。素直にきれいだ、と思った。前回の洗車に引き続き、庭の草むしりなんて全然似合ってなくて笑える。前みたいにからかってやればよかったのに、少しでも会えたことが嬉しいと思っている自分がいて、玄関前で立ち止まったままうまく口が開かない。
(今、うちに来るか、って言ったよな?)
そもそもユキ――折笠千斗とはろくな会話をした覚えがないのに、その回数だって片手で数えられるほどなのに、なぜ自宅へ招かれるのだろうか。気まぐれか、情けをかけられたのか、それにしたっておかしい。疑問符を並べていると、後片付けを終えたユキの、草の匂いが染みた青臭い指先がTシャツの裾を引っ張った。
「なにしてるの」
どうやらこれは決定事項なようで、ユキの背中を追いかけるように、けだるいふりをしながら大和は歩き出した。触れたら溶けてしまいそうな銀色の髪がきらきらと陽に透けて、陽炎みたいに揺れている。

 * * * 

地下鉄に乗っている間も、ガラス越しに映るあの人の顔ばかり見ていた。視線を合わせたら何を話したらいいのかわからなくて、無意味に怖がっていたけれど、間に漂う沈黙は嫌いじゃなかった。一体何を考えているのかさっぱりわからないと大和は思うが、そういうところを含めてミステリアスで魅力に映るのだった。学生鞄を提げた至って普通の高校生と、そこまで歳は離れていないが誰もが振り返るような美貌を持った男の二人組って、他人から見たらどんなふうに映るのだろうか。
都心の主要駅からマイナーな路線に乗り換えて、名前もおぼろげにしか知らないような駅で降りた。はじめて見る街、どこにでもありふれている街、あの人の住む、小さな街。迷路みたいに続くコンクリートの壁をじぐざぐに縫うように歩いて、どのくらい経っただろうか。まだですかと目線で訴えかけると、ユキはそれを悟ったように口を開いた。
「考え事して歩くと30分」
「……は?」
「早歩きなら25分、調子がよければ20分切るよ」
要するに普通に歩けば20分強というところだろうか。体が細身ですらっとしているせいか足音まで静かで、動きは普通の人よりずいぶんゆったりしていて、生きている人間というより意思のある人形みたいだ。スポーツなんて絶対やらなさそうで、彼の言う早歩きとやらを想像してみる。ちょっと、いやだいぶ面白くないか。
「それ、完全に走ってるだろ。……あんたが走るなんて見物だな」
「そうね。今からでもやってみる?」
「遠慮しておきます」
くだけた会話の中に優しさを感じるのに、素直になれない自分が邪魔をする。
もう誰のことも信じられない、大事なものは何ひとつ預けないようにしていた。守りたかったのは自分の心だけだった。それなのに誘われるままについてきてしまったのは。少しでも信じてみたいなんて思ってるんじゃないか、と大和は自分の本心を認められないでいた。

スローモーションで流れる景色の中に、背の低いひまわりが咲いていた。まっすぐで明るくて太陽みたいな花。ただひたすらにまぶしかった。照りつける夏の日差し、三角に切り取られた面積の、おそらく余った土地で作られたであろう公園からは子供のはしゃぐ声が聞こえてきて、木々から蝉がわんわん鳴いて、目の前にはちょっと気になっている相手の背中が見える。この人の毎日見ている風景を覗いた気持ちになって、胸の内がざわめく。じっとりと張り付く汗がぽたりと落ちて、アスファルトに染みれば黒い影になる。
そこ、とユキが目配せした住まいは想像通り、安っぽいアパートだった。建物が奥まっていて一部分しか見えないが、塗装のペイントが一部剥げているし、鉄骨階段の手すりは無論錆びついている。階段を上るとカンカンと住民の帰りを知らせる音が鳴って、続く通路から二つ目の扉にユキは鍵を差し込んだ。少しだけわくわくしながら、あまりに軽く開くドア――実際に破壊しようと思えば簡単に突破できそうだ――が開かれるのを待った。
さて駆け出しのアイドルのお宅拝見といきますか、と中に入れば、想像以上に室内は狭く物で溢れていた。足の踏み場がないわけではないが、結構ギリギリ。敷布団が敷きっぱなしで、ぐしゃぐしゃに丸まったタオルケットとドライヤーが隅に寄せられている。折りたたみ式の四角テーブルには音楽雑誌やビニール袋、食べかけのお菓子があり、床にはペットボトルや脱ぎっぱなしの衣類、ファンからの贈り物であろうブランドものの商品が手紙と一緒に転がっていて、その横にはハサミまで落ちている始末だ。とにかく色んなものがごちゃごちゃしていて、混沌としていた。そうして部屋の片隅にはギターケースがきちんと立てかけられていた。
生活、というものを見せつけられて、それはあまりに無防備で散らかっていて、ありのままの心を明け渡された気がした。自分だったらきっと勇気がいる。触れられたら嫌なものが今の大和の部屋には多すぎた。
「そのへんに座って、片付いてなくて悪いけど」
ぼうっと立ち尽くしていた大和は、刃物であるハサミを棚のそれっぽいところに戻し、床に落ちてるものをよけて壁にもたれかかった。
「ほんとに片付いてないっすね」
ユキはグラスに冷えた水を入れ、二つほどテーブルの上に置いてから、近くの布団に腰かけた。そうして、はじめて客人にもてなしたよと体育座りをして無邪気に笑っている。
掃き溜めに鶴、なんていうけど、ぐしゃぐしゃに散らかった世界の中でただひとつ、ぼんやりと浮かび上がって氷の結晶みたいに綺麗なものがそこにあった。この人が空間の真ん中にいるだけで別の時空に飛ばされた心地になるから不思議だ。自分の存在が、心の在り方がふわりと軽くなっていくのも変な感覚だった。
じっと見つめていたせいか、顔に何かついてる? とでも言いたげな顔をしてユキは大和のほうを覗き込んでくる。静けさだけ残して、冬の優しい魔物が首を傾げている。
「……自由そうでいいなあ、と思ったんですよ」
「君まで面倒見れないよ、寝るスペースないしね」
スペースがあったら面倒見てくれたのかよ、と大和は思うだけ思ってみる。死んでも口には出さないけれど。
住まいについてはバンドの相方と二人で暮らし始めたばかりらしいが――大和の耳には風の噂がすぐ届く――敷かれていた布団はダブルでもセミダブルでもなく普通のシングルだった。
「いつも面倒見られてるの、あんたのほうでしょう」
知ったような口をきくと、ユキは悪巧みをした少年の顔をしてにっと口角を上げた。普段のクールな印象とは打って変わって、時折あどけなさを残した表情を見せるので本当に油断ならない。
「どうかな? こう見えて夜は甲斐甲斐しいんだよ」
どういう意味だよ、とドン引く顔をわざと見せつけてから、会話を続けるも馬鹿らしくてため息をついた。今住んでいる相手って、普通に考えて男だろう。万が一、本当にそうだとしても別に驚いたりしないけれど。
この人には性別を感じさせない、特別な魅力があった。もちろん男性だと大和は認識していたけれど、繊細な雰囲気や儚さすら連想させるビジュアルの方が先行して、見た目と言動も合わせたとしても、両方の性を持ち合わせた、あるいはどちらともつかない作りをしていた。まあ、昔ファンを食い散らかしていたという噂もまことしやかに流れていたし、少なくとも女が好きなんだろうけど。

電車の時とは違って二人の間に沈黙しかなくても、大和は変に緊張しなかった。ユキは床に落ちていたリモコンを雑に押して、節約と言いながらエアコンを付けずに扇風機を回した。大きな箱の形をした分厚いブラウン管のテレビはアナログ放送でまだ映る。この二つはこの部屋において最も熱いしボロいしでかいしとにかく邪魔。あまりの自宅との格差に、改めて衝撃を受けずにいられない。友人の家に招かれたような状況で思い返せばそんなの小学生の頃以来だし、そもそも友人かどうかもわからない間柄ではあったが、こういうの久しぶりだなと大和は少しだけ感動してしまった。テレビのブラウン菅特有の細かな網目に目を凝らしてみる。これらを間近で見ると、虹色が混じったような狂った色をしているのだ。昔の自宅にはもっと大きなブラウン管のテレビがあったのを思い出す。
二人してサウナにいるみたいに蒸されながら、共通の知り合いの話題や芸能界の他愛のない会話をしたりしなかったり。
話が途切れたところで、近くのコンビニで買ったソーダ味のアイスを食べることにした。しゃくしゃくとかじっているといよいよ子供の頃に戻った気持ちがして、なのに目の前にはユキと呼ばれる氷のように美しい男がいる。自分とは真逆の、目鼻立ちがすっと整った美貌の持ち主で、頭のてっぺんから足の爪の先まで完全に完璧に構成されている、誰もが見惚れるほど容姿が良い、そういう人が自分と同じようにアイスを食べながら汗をかいている。目指してるもののために、自分の父親のパシリをしたりして。そんな様子を見るたびこの人も人間なんだなと思うのに、毎回実感が沸かずいまいち頭の中で合致しない。
視線を戻せば、再びユキのこめかみや首筋に汗が流れていき、それこそ透明な味がしそうで、とやましさと健全のぎりぎりを綱渡りしていたのに、ユキの手元からぽたぽた、と溶けかけたアイスの青いそれが落ちていくのを見たらもうだめだった。長い睫毛をそっと伏せて、躊躇いがちに舌先がそれを舐め取る一連の動作を凝視する。薄い唇の割れ目から覗く、赤い舌先。すくった雫は本当に自分と同じソーダの味がするだろうか? 甘くて爽やかで冷たい、夏の味。――あの指先に、なりたい。
「なに」
心臓が早鐘を打ち、胸の内を悟られないように必死にポーカーフェイスを貫き通す。こんな気持ち、絶対に知られたくない。
「当たり、って書いてありますよ」
神は俺を見放さず、不意をついて出た一言がこれだった。こういうのを間一髪っていうんだと大和は今世紀最大の難所をくぐり抜け、心底ほっとした。ユキの持っているアイスの棒には本当に当たりの文字が彫られていたのだった。
「顔に?……そうね、僕の人生は当たりだ」
ユキは納得した物言いをしたあと、ようやくピンときたのかアイスの向きを裏返した。
「本当だ。相方にあげよう」
ふふっと穏やかな笑みを零すと、最後の一口を食べ終えたユキはごちゃごちゃした机の上にそれをぽいと置いてしまった。さっそくゴミにしか見えないので、例の相方が気づいてくれることを大和は祈った。
「そういえば昨日、知覚過敏だって嘆いてたな」
「年寄りかよ」
思ったことがそのまま口に出てしまい、ユキは待ってましたとばかりに目を細めてにやりとした。
「後で本人に伝えておくね」
「やめてください」
「……あー、今日は草むしりもしたし、たくさん歩いたし、なんだか眠くなっちゃった」
ユキはごろんと横になって、うたた寝をし始めた。扇風機を無理矢理自分の方向に変えると、大和には全く風がこなくなる。
「ほら、大和くんもこっちきなよ。君も当たりたいでしょ」
そうですね、人生に、とは言えなかった。普通の人とはスタート地点が違いすぎて、何を望めばいいのか今の大和にはわからなかった。本当に欲しいものは口に出したところで叶わない未来だったから。こんなふうに、スポットライトのあたる最高の未来に向かっている人にだけ、人生の当たりが出ればいい。
「結構です」
不貞腐れてそっぽを向けば、女みたいに細い腕が這うように伸びてきて、またもや大和のTシャツの袖を掴んだ。こいつなんで袖ばっか掴むんだよ。
「ほら、怖くない」
ユキのとろりと眠そうな眦は微笑むとうっとりした表情にも重なって目に毒だ。
「誰も怖がってなんかないですよ、暑苦しいだけ、で」
そのとき、ぐっと力強く引っ張られて大和はバランスを崩してしまう。なんとか片手で支えてみるものの、観念してユキの近くに足を組んで座り直した。すぐ横には形のいい後頭部があり、切り揃えられた銀の襟足が、誘うみたいに揺れる。
――さわりたい、さわれない、たぶん一生。
大和は本当は何もかもが怖かった。どこまでも甘ちゃんで反抗期真っ盛りで何の責任も取れない、大人でもないただの子供で、自分のためを思って叱ってくれる人間もいなくて、今のこの瞬間、同情でこの人から慰められている。こんなにも『嬉しい』『楽しい』『優しい』をもらったと思ってたのに、情けをかけられているだけ。たったそれだけのことなのだ。
一度でもこの美しく棚引く銀の髪に、雪のように白い?に、華奢な指先に、甘く囁く唇に、触れることができたら。一生分の当たりクジを使い果たしてしまうような気がするから。
 
 
「本当に送らなくていいの?」
玄関先まで見送りにきたユキは、着ているシャツをはだけさせていて外に出るにしては露出が高すぎるし、起きてからしばらく経ったというのにまだぽやぽやと眠たそうに目を擦っている。外に出る気が全くない人に言われたくない。
「記憶力には自信あるんで」
玄関先で靴を履いて、この世のありとあらゆる未練を捨てたくてひたすら俯いていた。
「ぜんぶが嫌になったら、またおいで」
こういうとき本心なのかおちょくってるのか時々本当にわからない。わからないから、大和は逃げ道を作ることしかできない。どこまでが計算で、どこまでがあなたの許容範囲ですか。素直に聞けたらよかった。
「二度と来ませんよ、こんなところ」
「そう」
そっけないけれど後腐れもないのがこの人のいいところだった。このままだといつか頼ってしまう、甘えてしまう。強く生き抜こうと決めた人間の近くには、光が強すぎて側にいられない。弱っている自分をこれ以上自覚したくなかった。
「今日のあんた、優しすぎて気持ち悪い」
吐き捨てるように呟いて、別れの挨拶もろくにしないまま強引にドアを閉めた。

惨めだった。こんなのあまりに滑稽だ。やりきれない。……まぶしくて、羨ましくて、やりきれない。
世界に一色しかない銀色の輝く光景が、まぶたの裏でいつまでもきらきらと反射していた。


# す べ て は 君 の せ い で