「おっと、わりぃ」 状況を説明するだけなら簡単だ。天がすれ違いざま、珍しく物や人を避けられずに衝突した。龍の家に一緒に住み始めてから間もない頃だった。 キッチンの真ん中で、歩き出そうとしていた楽はとっさのことに、持ちかけたグラスを即座に置いて転びかけた天を胸に受け止めた。 タイミングが合わないなんて普段のパフォーマンスではあり得ないことだけれど、私生活では真逆と言っていいくらい二人は相性が悪かった。タイミングさえ掴めず、なのにこうしてしっかりと抱きとめられている。こんなふうに抱擁されたのがいつぶりかなんて考える余裕もなく、体に循環する血が教えるみたいに、本能的な感覚に支配されて天は目を見開いた。 ドン、とぶつかった拍子に、父親や、兄のような存在に抱きとめられた気持ちになったからだった。 ――匂いがちがう、あたたかさがちがう、血縁である双子の陸から感じ取れるものでもない。 自分の見せたくない部分まで知られていて、受け止めてくれている存在だから、そんなことを思うんだ。なんならこのまま腕を回されても、頭を撫でられても、今なら抵抗できないかもしれない。そのくらいフラットで自然で、心地のよい安心感が天の思考を停止させた。すぐそばでどくん、どくんと波打つ心臓の音が聴こえる。情熱的で、灯った炎の揺らぐことのない、楽の音楽だ。 硬直して動かない天を見かねて、楽がその名を呼びかけると、胸に収まった美しい少年は顔だけまっすぐに上げてみせる。澄んだ目は神聖な宝石のようで、いつまでも覗き込んでいたくなる。ルビーにも、アメジストにも、すべてを反射するダイヤモンドにもなる瞳。 楽は瞬時に、最後に行ったライブを思い出した。この大きな瞳から、美しく穢れのない涙が零れ落ちた日のことだ。 全員が導き出した答え。抵抗、反発、戸惑い、悔しさ。周りからどんな嘲笑をされたって構わない、まだ終わりじゃない、終わらせてたまるか、信じる未来の先で行くべき場所が俺たちを待ってる。 ……あのとき流した天の涙は海に注がれていく。深く深く潜った俺たちは、きらきらとした海面をひたすらに見つめ続けた。吐く息は泡になり、声すら出せずに身を委ねるしかなかった。かつては自分たちがいた場所。果てしなく遠いような、一瞬で浮上できそうな、そんな甘く切ない予感を残して、誰も知らない、闇よりも濃い海の底へと沈んでいったのだ。 「……どうしたらおおきくなれる」 雨に濡れる観客と夜の繁華街を過ぎる人たち、簡易でちっぽけなスポットライト、そんな光景を思い出していたのに、天は天でまったく違うことを考えていたようだ。青少年の悩みを素直に吐露されたことが予想外で、楽は思わず吹き出して笑ってしまった。 天はむっと唇を尖らせ、突き放すように肘鉄砲を食わせた。大勢の人間を次々と魅了していく小さな魔物は、ただの十八歳のあどけない少年でもあった。 「ってーな」 途端にいつもの横暴な天に戻ってしまったのが勿体無いような気がしたけれど、これが普段の日常で、二人なりのコミュニケーションで、そんなふうにいられるお互いが唯一無二で、ちょうどいい。馴れ合いはいらないと口にするくせに、これをそう呼ばずして何と呼ぶのだろう。 苛立ちの込もった、戸棚を乱暴に開閉する音がリビングに響く。楽と同じ、龍がお揃いだと言って買ってきたグラスに牛乳を注いでいるのを見た楽はますます?の緩みを止められない。 「急いでも伸びるもんでもねーぞ」 「わかってる」 長年一緒にいると意外でもなんでもなくなってくるけれど、可愛いな、と楽は素直に思った。愛情のような、親愛のような、穏やかな感情が胸に込み上げてくる。龍ほど広い心を持ち合わせてはいないが、年齢が四つも違うからそう思える。天にとってはその差がジレンマなのかもしれない。今のTRIGGERはビジネスパートナーというよりは友人で、ライバルで、仲間で、そういったものが絶妙に調和した存在だった。 ただ、天に関しては、一生かけてもこいつが世間にしたことを同じようにはできないだろうと楽はその才能に慄くことがある。楽は楽なりの方法で人を魅了できる素質がある。それでも天のやっていることは、他のどんなものより異質だった。 今になって天のすごさがようやくわかる。ただステージの真ん中で踊っているだけじゃあ、ないんだ。決して俺や龍が役不足というわけではないけれど、センターとして、決定的に何かが違った。天は時折、人という枠すら超えて、天使か神様になろうしていると思わせる瞬間があって、でもそれを誰かに共感してほしいわけでもなくて、その姿はただただ、尊くて、人を祈るような気持ちにさせた。生と死すら共存させているような、言葉では言い表せない何かが降りてきていて、それでも静かに息をしている天が儚く見えて、普段の私生活を知ってるぶん、少しだけ胸が苦しくなる。 誰も越えられない、誰にも真似できない、だからお前がセンターなんだ。ここにある、ここにいる、三人だったらどこまでも上りつめていける。 頭をわしゃわしゃと撫で付けてやれば、やめてよ、なにするのとまんざらでもなさそうに天は怒り出す。嫌だ嫌だと口先では言うけれど、いつだって結局のところあまのじゃくなのだ。 「いいんだよ、お前はそのまままで」 ありのままを伝えると、自分が思った以上に穏やかな声が出て驚いた。 「……ふん」 そっぽを向いた天は悩みがない人にはわからないよとでも言いたげだ。 背が伸びなくても、可愛げがなくても、泣いて雨にまみれてぐしゃぐしゃになっても、倒れそうになったら支えてやる。だって、仲間だろう。楽は思う。この最強に奇妙な運命を、幸福に思う。 凍るような冷たい海の底で、まだ、見上げることしかできなくても、この三人ならば。 天はすかさず楽の足をスリッパごと踏みつけて、逃げるようにその場を立ち去った。構いすぎた猫に振られたようで、嬉しいやら寂しいやら。 それでも、確かなものがここにあるという実感が、楽の背中を強く押した。 # 楽 典 |