もうすぐ卒業だね、なんてくすくすと春の陽気みたいに逢坂壮五という人間は微笑んだ。ずっと遠くにいる人みたいな、大人びた顔で優しく笑いかけられると、俺は少しだけ胸がきゅっとなる。どうしてそうなるかはわからない。わからないままでいたくて、雨の日、窓ガラスに指でなぞった何かを慌てて消すみたいに、自分の気持ちをぼやかした。 危うく落としかけた単位もなんとか取得して、みんなに心配をかけることもなくなった俺は晴れて自由の身だ。時間的にも内容的にも本当にギリギリだったので、空いている時間さえあればメンバー全員からスパルタ教育を受けた。特にそーちゃんとは空き時間が被るので、担当科目がどんどん増えていった。挙句に環くんがこんなふうになったのも全て僕の責任だと言い放ち、毎晩部屋に来るようになってからは本当に地獄だった。でもそんな日々ともお別れだ。無理矢理机に向かわされ、夜な夜な数式の呪文やわけのわからない歴史年号の語呂合わせが悪夢になるまで耳元で囁かれたり、タバスコのたくさんかかった夜食が差し入れられることもなくなる。開放感ハンパね?、卒業最高! 最後まで卒業できるかどうか微妙なラインをいっていた俺はかなり舞い上がっていた。 「環くんのことだから、卒業式の日、第二ボタンはあっという間に可愛い女の子に取られちゃうね」 マグカップに牛乳を注ぎながら、穏やかな表情を絶やさない壮五に対して、こういう風景どこかで見たことあるなと環は不思議な違和感を覚えた。 「そーちゃん、俺んとこ、ブレザーだよ」 答えながら、昔、自分の思い描く幸せな家庭を何度も想像したことがあるせいかもしれないと思った。 「あはは、そうだったね。それでもきっと環くんなら……ううん、なんでもない」 おそらく、シャツでもジャケットでもお構いなしで、ということなのだろうなと薄々勘付いてはいたものの、環はそれ以上言及することはなかった。 「大きなこどもを寝かしつけるには、これを一滴……っと」 壮五はレンジで温めたマグカップに、怪しげな茶色の液体を少量垂らした。きれいなガラス瓶には英語のパッケージ。 「そーちゃん、これ、酒?」 「ちょっとだけね。寒い日なんかには、ホットミルクにブランデーを入れたりするんだ」 みんなには内緒だよ、と愛おしそうに目を細めて、壮五はカウンターに肘をついて顔をこてんと傾けた。可愛いのだ。逢坂壮五は、四葉環が可愛い。ありったけのぜんぶで、とびきり甘やかしたい。本当にそうしてしまえたらいいのに、という本音は胸の奥底にしまって、眼差しだけで伝わらないかな、と少しのアルコールを飲ませて試してみたりする。 夜遅くに作ってもらったホットミルクは甘いお酒の匂いがして、これが大人の味? と眉を八の字にしながら環はぼやいた。それでも次第にぽかぽかしてくる体に心地よさを感じて、壮五の語りかける優しい声にそっと耳を傾けた。 MEZZO"として仕事をするとき、簡易なパーテーションで区切られた狭い部屋で着替えるときがある。場所の都合だったり、時間短縮のためだったり事情は様々だが、大まかに区切られてるだけで、そこそこな広さがあるので面倒なときは二人まとめて入ってしまう。こういうことはよくあることで、男同士だし何の問題もないはずだった。つい最近まで、意識し始めるその一秒前までは。 壮五の白いシャツの、透明なボタンを外す美しい指先と、開かれていく素肌に目が離せなくなって、そこから何かがおかしくなった。心臓がどくんどくんと激しく波打つ、尋常じゃない速さで。体が火照って熱くなる。 ──おかしいだろ、どうして。まるで女の子のそれ、見るみたいなカンジ。見ちゃいけないもの、大人たちは知っているもの、俺はまだ、ちゃんとわからないもの。……そーちゃんは、女の子じゃない。俺を守ろうとする、大人ぶった子供なだけで。 「環くん?」 はっとして、環は歯を食いしばって暴れ出す自分の欲望を振り払った。 「あ……わり、急ぐ」 壮五の胸元をじっと見つめたまま着替える手が止まっていたので、なるべく壮五を見ないように背を向け、服をハンガーに掛けた。 それから何度か同じようなことがあり、その度に環は困惑し、ぞくぞくと体の内側から妙な感覚が襲ってくるのを耐えた。それがいいことなのか悪いことなのか、話すのもためらわれて、結局言えなかった。そんな罪悪感からか、とうとう夢にまで見るようになった。それは学校の勉強よりもタチが悪く、壮五が自分の前でシャツを脱ぐ光景は繰り返し夢に出てきて環を苦しめた。 「確か、明後日って卒業式だったよね」 牛乳をレンジで温めながら、壮五はカウンター越しに話しかける。今日は何を入れようかな、なんて思案しながら。 「そーだよ、くんの?」 夜遅くに仕事が終わると、キッチンで何か飲み物を作って二人で飲むことが恒例行事になっていた。 「いや、予定としては入ってないけど……もしかして来てほしいの?」 このとき、そーちゃんは期待していたのかもしれない。だって薄紫の目の奥の、まあるいとこがきらっと光った気がした。 レンジが鳴って、そーちゃんは調味料の棚からはちみつとシナモンを取り出して、まるでお店で出てくるやつみたいにしてから俺に渡す。見栄えがよくって、女子たちがSNSにのっけるようなやつ。俺は撮らないけど。 「んーん、いおりんもいっし、バンちゃんも来てくれるからだいじょーぶ」 「……そっか」 そんな寂しそうな顔するなら来ればいいのに、と環はむっとしたけれど、自分だって来てくれなきゃヤダ、と子供みたいに駄々をこねなかった。こんなとき、ヤマさんにもりっくんにも言える気がするのに、なんでそーちゃんにだけは言えないんだろう。きれいに中央に乗っているシナモンパウダーをスプーンでかき混ぜながら考える。……冗談めかして言うことすらできないんだ、たぶん。冗談で言っても本心だって顔でバレてしまう。そうして、そーちゃんは無理をしてでも俺の願いを頑なに叶えようとするからだ。 シナモン入りのホットミルクははちみつだって入ってるのに、いつもより甘さ控えめだ。 そんな会話をした翌日の晩、恐るべきことに泥酔した彼を迎えに行くというミッションが遂行された。部屋でゲームをしていたら携帯の着信があって、こんな時間に誰だろうと画面も見ずに出てみれば、相手はべろべろに酔っ払ったそーちゃんだった。呆れる以上に驚いた。明日俺が卒業式って知っててそういうことすんのかよ、と環は大きなため息をつく。 どうやら番組の打ち上げで飲んでいて、気がついたらこうなっていた……という流れはいつものことで、寮から比較的近くにいるという話だったので、今すぐ行きますと一つ返事で財布だけポケットに入れて寮を出る。歩きながら、先ほど電話越しで聞いた『たぁくんがいい』という舌ったらずの声が頭の中をぐるぐる回る。ああいう状態のそーちゃんを、メンバー以外の誰にも見られたくなかった。 背中におぶられているそーちゃんの体は成人男性の割には軽い。やわらかな髪が首筋にかかる。吐息は酒くさいし、なんかわけのわからないことを口走ってるし、とにかく最悪だ。翌日あんたがどんだけ青ざめた顔して肩を震わせながら俺に謝ると思ってんだ。元に戻ったそーちゃんは何も覚えてないから悪くないかもしれないけど、それでも夜遅くに未成年を迎えに来させるってどーゆーこと、って明日ちゃんと問い詰めなくちゃ。 「そーちゃん、部屋ついた」 壮五の部屋は整理整頓が行き届いており、いつ訪れてもモデルルームみたいで生活感がまるで見当たらない。変化といえば、机の上に置かれる資料や、衣装さんにもらった帽子や棚にある本とCDが増えるくらいで毎回同じに見える。 ベッドにそーちゃんを降ろして、いつもと同じ手順で寝かしつけた。流石に着替えさせはしないけど、ベルトとボタンは軽く緩めておく。もう何度目になるのだろう、酔っ払いの介抱にもすっかり慣れてしまった。 「水もここにあっから、自分で飲める?」 「ん」 こくりと頷くそーちゃんは、目が潤んでいて色っぽくて、まだあっちの世界から戻ってこない。 「じゃあ俺、明日はえーしもう戻るかんな」 踵を返せば後ろ髪を引かれたわけではなく、服の裾を引っ張られて、環の足が止まる。 「たぁくん」 誘うような甘い声。そーちゃんは俺にどうしてほしいの。本当は何を期待してたの。心の奥にある本当の気持ちを隠しているのは、きっとそーちゃんだけじゃない。 「だーめ、そーちゃん、いいこして寝んの」 子供にするみたいに頭を撫でつければ、ふわふわした髪の毛先が跳ねて壮五の?をくすぐった。ひとしきりくすくすと笑うと、大人しく布団に入っていたはずの壮五は、なぜだか悲しげな表情を浮かべながらゆっくりと起き上がった。 「……悪い子は、どっち」 おぼつかない足取りで、ふらふらしながら近くの棚に凭れて立ち上がる。普段なら上機嫌な様子でこちらが困るようなことをお構いなしに言うのだけれど、俯いた壮五はいつもと様子が違った。そーちゃん、と環が呼びかけても返事すらない。 壮五は自身のベルトに手をかけたと思えば、ずるずるとパンツやらなにやらを一気に下げていった。突然のことに環の頭は追いつかなくて、気がつけば最後にはシャツと脱ぎかけの白いソックスだけが残った。シミひとつない真っ白なシャツはちょうど股下のところで止まっていて、見えそうで見えない。すべすべの太ももに、すね毛なんて生えてるように見えない膝下。なんか、やばい。言葉にできないけど、子供は見ちゃだめなやつ。 「なっ、な……に、してんだよ!そーちゃん、あちーの?」 バクバクと鳴り出す心臓の鼓動が飛び出しそうだ。酔っ払うとキスするやつとか、脱ぐやつとかいるらしいけど、そーちゃんはどうだったっけ? 思い出せないわからない。しかもこの状況、このごろよく見る夢とそっくりだ。環は目のやり場に困って視線を逸らすけれど、もう何の意味も成さないかもしれない。 「ねえ、見て」 唐突に手首を掴まれて、ちゅっと指先に口付けられたら、思わず真正面を見ずにはいられない。そーちゃん、どうして。どんな顔しているか、わかってしまう、わかられてしまう、きっと、互いに。 壮五は見せつけるように自分のシャツのボタンをいくつか外して、きれいに笑ってみせる。 「見てたでしょ、あのとき」 ああ、全部知られていたのだと環は観念して、ゆっくりと頷いた。自分がどんなひどい顔をしてるかもわからない。興奮で体が熱い、脳みそが沸騰しそうだ。 「ぜんぶ、はずしていいよ……だから代わりに」 耳元で囁かれる誘惑めいた言葉、少し掠れた、ホットミルクみたいに優しくて甘い声。 「……第二ボタン、ちょうだい」 俺がこれからすること。 ひとつ、そーちゃんのシャツを脱がせること。ふたつ、俺の第二ボタンをそーちゃんにあげること。みっつ、次にすることは── 「卒業おめでとう、環くん」 # 三 つ 目 の ボ タ ン |