一人、暗い廊下を歩いていると自分のスリッパの足音さえなんだか不気味に感じる。このところ最高気温は常に三十度を超えていて、熱帯夜は終わらない祭みたいに長く続いていた。エアコンのタイマーが切れ、背中にじわりと汗をかいた一織は夜中に目を覚ましてしまったのだった。寝返りを打てどもすぐには眠れそうもなかったので、部屋を出て用を足し、流しで手を洗っているときに事件は起こった。蛇口から流れる水音とは別の何かが聞こえた気がして、一織は背後を振り返る。幽霊でも泥棒でもなんでもない。嫌な予感がして、すぐさま思い当たる部屋へと急いだ。
予想通り、七瀬陸の部屋からごほごほと喉の咳き込む音がする。
「七瀬さん」
ノックをして、何度か呼んだが返事がないので、入りますよと一声かけてドアを開けた。
「なんですかこの部屋は!」
一織が声を荒げたのにも理由があり、夏を通り越して凍えるような冬の寒さがそこにあったからだった。
「い、おり……?」
タオルケットに包まって震えている陸はぼんやりと一織を見上げた。ああ、この声はまた怒られてしまうと寝ぼけ眼で考えながら。
一織はテレビ台の上にあったリモコンを手に取ると、脳のあらゆる毛細血管が破裂して終いにはショートしそうになった。冷房の設定温度はなんと17度になっていたのだった。怒りに身を任せてボタンを連打しながら、どうしてこんなことになっているのか問い詰めたかったが、陸の青ざめた顔を見た瞬間、何も言えなくなった。深呼吸すれば冷えた空気が肺に突き刺さる。
「……冷蔵庫かと思いましたよ」
「帰ってきて、すごく暑かったから……冷房かけて、そのまま寝ちゃっ……」
確か昨日は遠方のロケが入っており、帰ってくるのが遅くなるとは聞いていた。疲れていたのだろう、エアコンの設定温度を見間違えたのか一気に冷やそうとしたのかもわからないが、今は一刻を争う。
こほ、と再び咳き込む陸の背中をさすろうと、触れたTシャツの生地のあまりの冷たさにぞっとする。
「だいじょ、ぶ」
陸は一織の右手を取ると、おでこや?にすりすりと擦り寄せ、小動物のような仕草で気持ちよさそうに目を細めた。何が大丈夫なのかと一織は思うが、それを問うたところで無理にでも笑う陸の顔が浮かんでしまい、下唇を噛んでぐっと堪えた。
「……あったかい」
ふいに触れてしまった陸の冷たい?の、さらさらとした感覚や、そのやわらかさを、無垢な笑みを、なんだか一生忘れられない気がした。
「ねえ、一織……体温、わけてよ」
さむいんだ、あっためて。そう口走る、七瀬陸という人間が何を言っているのか理解するのに時間がかかり、理解してしまえばおそらくもっと理解に苦しむ、そんな言葉だった。ともすればするりと回された指先から手のひらから腕にかけてのそれを、振り払えない。
半分空いたベッドの中に誘導されて、胸の中に抱きとめられた。
「おれ、ずっと一織のこと、こうして抱きしめてみたかったんだ」
陸の氷のように冷たい身体が、一織の体温を、その心までも奪ってじわりと溶けていく。そのうちおんなじになっていく、そうして皮膚も温度も心も思考もなにもかも溶けてしまって、ひとつになってしまうかもしれない。ゆるく目を閉じてみれば、それは恐怖でもなんでもなく、自然なことのように感じられた。
「……嫌だったらごめん」
こんなにも幸福感に満たされているのに、少しでも不安を感じているのは自分だけではないのだと、一織はおずおずと片腕を伸ばし、陸を抱きしめ返した。横向きだから、両腕で抱きしめられないのがもどかしい。
「そんなわけ、ないじゃないですか」
「だったら、よかったぁ……」
安心しきった子供のように、すう、と眠ってしまったらしい陸を尻目に、今この状況に対し一体何が起こっているのか、混乱していて考えがまとまらない。
火照る?の、潤んだ目の、触れ合う肌の、喉から出かかるマグマみたいに熱くて心臓が飛び出そうなほど嬉しくて思わず叫び出しそうになる、胸の奥底から込み上げるこの気持ちは。


# 夏 に