蝉の鳴き声がどこまでも追いかけてくるような、暑い夏の日のことだった。先日プール開きがあり、普段からなぜか一人で着替えている一織を環は偶然目撃した。場所は体育館倉庫。ほどよくサボれる場所として愛用していたが、まさか一織がここに着替えに来るとは思わず、驚いた環は慌てて跳び箱の後ろに身を潜めた。隠れた手前、出て行くこともできずにじっとしていると、なぜ皆と一緒に着替えないのだろうかという疑問がわく。本人に聞いたことがあるが、毎回はぐらかされてしまって真相は謎のままだ。きっと何か理由があるに違いないと、好奇心に負けて一織の着替えを覗き見しているが、特に変わった様子はない。どちらかというと、彼の白い素肌や、筋肉があまりついていない体つきのほうに目がいった。環はなぜか体の奥のほうがじんとして、胸がどきどきするのを止められなかった。一織が出て行くと、そこには制服が残されていた。
環の家は貧乏で、幼い頃はボロボロの服をよく馬鹿にされたりしたのだが、制服を着ていれば差別されることがないので好きだった。全員同じものを着ているのだから何も変わらないはずなのに、目の前にある制服だけは特別で神聖なもののように感じられた。
環はきれいに畳まれている一織の制服を手に取って、ぎゅうと抱きしめてみる。アイロンがかけられていて皺一つない、真っ白なワイシャツ。ケーキ屋を営んでいるからか、お菓子の甘い匂いが鼻いっぱいに広がって、彼の言動と記憶がリンクする。一織はいつも環を気にかけていて、お節介で優しくて、苺のショートケーキみたいに甘酸っぱい。一織はこの制服みたいに、いつだってきれいだった。制服だけじゃなくて、ぜんぶが。そのきれいな一織をよごしたいと、環は少しでも、思った。そんなふうに漠然と思ってしまったのだった。どうしようもなくて、環は一度抱きしめた一織の制服を持ち出してしまった。

体育の授業が終わった後、ジャージで過ごす一織の姿は明らかに目立ち、盗難の噂はあっという間に広まった。人の物を盗むなんて一番やっちゃいけないことだと鞄の中の制服を思いながら、一織に謝ろうとしたが、勇気が出ずになかなか言うことができない。
放課後、教師に報告をし終えたらしい一織は、よくあることですから、と溜め息をつきながら、心配をかけまいと環に話しかけた。
「よくあることで片付けられることなのかよ!」
かっとなった環は怒鳴って、外へ飛び出した。突然のことに驚いた一織は、それを追うように教室を出る。川沿いの道を二人は駆けていった。
「いおりん、来んな!」
「なんでですか!」
走り続けていた環はやっと橋のところで立ち止まり、息を切らしながら、歯を食いしばって鞄から制服を取り出した。
「……どうしてこんなことしたんですか」
自分の制服だとわかると、一織は顔を歪ませて環に問うた。環は何も言えなかった。ただただうつむいて、くしゃくしゃになった一織の制服を見つめていた。
「私はあなたに嫌われるようなことをした覚えはありませんが、物を盗むような人とは、友達ではいられませんね」
当たり前の反応だった。環はもう一度、甘くて優しい匂いのする一織に触れたかった。そうして、触れられたかった。制服の匂いを嗅いだとき、どうしようもない劣情や、羨望を感じてたまらなくなった。だから盗んだ。
いらない、こんな感情、いらない。言葉にできないあまり、環は制服を川に投げ捨ててこう叫んだ。
「もう友達じゃなくていい!」
裕福な家庭で家族に大事にされて育った人にはわからないんだ。それがどんなに眩しくて、きれいで、羨ましいものなのか。
環は茶色く濁った川へ降りて、濡れるのも構わずに流されていった制服を追いかけた。石と枝に引っかかった一織の制服を、大切なものを守るように、もう一度胸に抱きしめる。泣きたい気持ちで、よごれてしまった制服を抱きしめる。
一織は呆然と立ち尽くし、何も言うことができなかった。

「なー、和泉の制服って結局見つかったの?」「ああ、あの後すぐに見つかったんですよ」「ふうん」環は机にうつ伏せながら、そんな会話を耳にした。今日の授業は体育がある。あれから一織とは一切会話をしていない。胸がきりきりと痛むのを感じたが、過ぎ去ったことは仕方がない。
環は時間になると、あの日一織が着替えていた体育館倉庫で制服を脱いだ。ここにあるのは皺だらけでぐしゃぐしゃの制服だ。自分の心みたいに、よごしてしまった。一織みたいにきれいに畳めなくてごめんな、と心の中で話しかけて、環はプールへと向かった。
奥に隠れていた一織は、ほどなくして環の制服を見やる。乱雑に置かれたその制服を、一織は手に取った。そうして胸に抱いてみる。彼の、汗の匂いがした。彼の、子供みたいにあどけない笑顔が好きだった。危なっかしくて放っておけなくて、純粋で、誰よりも優しい人だと思っていた。一織はしばらくの間、環の制服を手から離さずにいた。

放課後になり帰ろうとしたとき、予想通りその人物は現れた。
「なぁ……俺の制服、知らね?」
ずいぶんと久しぶりに、彼の声を聞く。そんなに日は経ってないはずなのに、懐かしく感じて、嬉しくて、少しだけ泣きそうになる。
前と同じように外へ走って逃げてしまえばいいのだろうか。一織は空っぽの頭で考える。自分がしたことの意味を、その訳を。理由なんて必要なのだろうか。彼も、こんな気持ちだったのだろうか。巡り巡って、やっとわかった気がする。
どうせばれている。この気持ちだって見透かされてるのかもしれない。だって鞄を開けばわかられてしまう。皺だらけの制服がきれいに畳まれて、そこにあることが。


# ど う し て 服 を