「どうぞ、上がって」
この扉を開けてすぐに長く続くフローリングには、いつ来ても埃一つ見当たらない。来客用のスリッパがぱたぱたと音を立てて、心音と同じリズムで大和の足は歩行する。千さんの家に招かれるのは、これが初めてではなかった。一緒の現場だったときは、打ち上げの後に誘われて何度か寄ったことがあって、それでも百さんの手前、なるべく理由をつけて断るようにしていた。二人の関係がどのようなものなのか大和は聞いていないし、今後聞くつもりもない。聞かなくてもわかるからだ。
いつものように広めのソファに腰掛けると、千は明らかに高級であろうオーディオをいじって、棚からCDを吟味しているようだった。いつの間にか部屋の照明は暖色に変わり、しっとりしたジャズが流れて初めて、一気にムーディな雰囲気に様変わりした。まるでジャズバーにいるような気分だ。
「珍しいですね」
ローテーブルにはいつの間にか洒落ているボトルとグラスが二つ置かれていて、ギターをかき鳴らすとは思えないほど細くてきれいな指先が、ガラスの曲線をいたずらに撫でた。試されているみたいだと大和は思いながら、美しい悪魔が実験を行うのを見守っていた。実験体はもれなく俺だ。
とくとく、と蒸留された琥珀色の液体がロックグラスに注がれていく。見るからに強い酒だった。氷が少し溶けたくらいじゃ高いアルコール度数は落ちないだろう。バーに行ったことがないわけではないけれど、こういう洒落た雰囲気は落ち着かない。
「こういうの、モモといるときはかけられないから」
引っかかる物言いをするなと大和は怪訝な顔をしてしまい、ふうと息を吐いて表情を和らげる努力をした。
「なんでですか?」
大人になってから気がついたけれど、千さんは意外と世話焼きな部分があって、気分がいいと人にもてなしをしたがる。だからこれも、その一つなだけなんだ。
「わからない?」
わからないですよ、と言うまでもなく肩をすくめてみせる。
「……キミはもう、子供じゃないでしょう」
唐突に、耳元で色っぽく囁かれて背筋がぞくぞくと震えた。心拍数の上昇が激しい。大和は色々な意味で震え上がった。耳元から少しの快感を拾ってしまう自分が嫌で、目の前にいる人のことが好きだと自覚するのが嫌で、それに反する自分の意思に負けるのが嫌で、だからつまり、これを悟られたらおしまいだったから。
「……役作りの一環ですか?」
余裕ぶって笑ってみせるけれど、心の中は惨状だ。演技の上手さがこんなところで役に立つなんて思いもしなかった。
「そうね」
この人のそうね、という言葉には、同意またはその場を受け流すだけの二通りがある。
「今夜はもう少し酔いたいな」
そう言って二つのグラスに更にウィスキーを注いで、嗜むように口をつけた。目を細めて、まるでキスでもするみたいな仕草で。

「簡単なおつまみでも作ろうか」
千さんはほろ酔いのまま台所に立って、何品か作っているようだった。出されたのは自家栽培のベビーリーフのサラダと、数種類のチーズとクラッカー、そしてはちみつが添えられていた。
「ブルーチーズにははちみつ、って知ってる?」
大和はもちろん知っていた。癖のあるチーズ、特に青カビの類をおいしく思えるようになったのは酒を飲めるようになってからで、付き合いで時々口にしていたからだ。
「あ、ついちゃった」
とろりとした黄金色のそれが千の細い指先に垂れて、たったそれだけでエロティックだと感じてしまうなんて、俺の頭はイカれてるんだろうか。
更に千は追い討ちをかけるように、ほら、と指を差し出してきて、ますます大和は混乱した。意図なんてとっくの昔からわかりきっている。この人は俺の反応を見て楽しんでいるだけなんだ。
「あのころからずっと、キミは何を恐れてるの?」
普段通りの、素面の顔して千は言った。マイナス1000度の冷たい声がナイフみたいに降ってくる。
大和はかっとなり、手首を強引に掴んだ。そうして、その悪魔の指先を己の舌先で舐め取った。自分でも何をしているのか理解が追いつかず、頭の中で警報が鳴り響いて止まらない。クラクラするほど甘い蜜の味がした。神聖な指先を、さわって許されるわけがないこの指先を、俺は。
「雰囲気に……呑まれただけです」
ありったけの言い訳をして全部をチャラにしてもらえないだろうか。そんなの不可能に決まってる。
「流石、天性の才能で数々のドラマに出演しているだけありますね」
ハハ、と渇いた笑いが漏れて、どうにかして話の流れを変えたいのに、千は顔色ひとつ変えずに人差し指をじっと見つめている。べたついていたのだろうか、千は再び指先をこちらに見せつけるようにゆっくりと舐めとった。ユキさんの口の中で、唾液が交じり合う。まるでドラマのようだった。赤い舌先。白くて小さな歯。顎のきれいな骨格。真夏の夜の怪談と淫夢ならどっちがマシかな。
「ね、何も怖くないでしょう」
指の次に触れ合うものは。大和は背筋を震わせながら死刑囚になった気持ちでその時を待つ。次に整った顔が薄い繊細な唇が近づいてきたらきっと避けられない。
俺は今すぐにでも、この人から逃げ出したい。ずっと怖いよ。俺は、あんたのことが。


# 千 の ナ イ フ