昨夜、和泉三月とキスをした。三月ははにかむように笑って、俺を受け止めてくれた。俺だけではなくて、俺のすべてを、だ。自分より小柄な体をしている彼は、それでもぎゅうと強く俺を抱きしめて、嬉しいと言った。そのとき初めて、人から「幸せ」をもらったのだと思った。涙が出た。いつまでも幸福という定義をできなかった二十数年間が、報われた気がした。
だけれど同時に、別の人との関係を止められないと自覚していたから、戸惑った。

「俺、ミツと付き合うことに」
言葉を遮って、ユキさんは啄ばむみたいに軽く口付けてきた。わかっているとでも言うように、目尻をとろんとさせてあの人は妖艶に笑う。まるで魔性の悪魔だ。
「うん、いいんじゃない」
何がいいんだと言ったところでこの人には通じない。
「君は三月くんが好き。僕もモモが好き」
無造作にベッドに腰掛けたユキさんは、自分で自分の服のボタンに手をかけて、いつものように脱ぎ始めた。
「じゃあなんで……ッ」
かっとなって腕を掴めば、骨ばってはいるが女みたいに華奢な手首が一回り。これ以上力を込めたら折れてしまいそうで、結局ゆるゆると加減した。こんな細っこい腕でよくあんなギターを弾く。
「この関係に理由が必要?」
こくりと頷けば、呆れたようにユキさんは腕を振り払って、ベッドに寝転がる。はだけた胸元はもう何度も触れたことがあり、性的に感じさせる方法を俺はもう知っている。
「僕は君のことが好きで、君も僕が好き。これ以上何があるの?」
平然とそんなことをのたまうユキさんは、どこまでいっても地でRe:valeを体現してみせる。
「……傷つきますよ」
「そう? モモはもう全部知ってると思うけど」
一度振り払ったくせに、再びこの手を手繰り寄せられて、ベッドに乗り上がってしまった。それでも抵抗できないのはこの人の美貌がそうさせるからだ。目を伏せて、ちゅっと何度も指先に口付けて、好きだよと小鳥みたいに囀る。水色とグレーを混ぜたアンティークみたいな瞳。至近距離で見るユキさんの顔が好きだった。一目惚れと初恋を、同時にした相手だったから。
「じゃあユキさんは、俺が傷つかないとでも思うんですか」
歯を食いしばって判決の時を待てば、沈黙という猶予さえ与えられなかった。
「傷つく? 大和くんが?」
ぽかんとして、それから、嬉しいの間違いじゃなくて? と言い直された俺の気持ちを何と言い表そうか。本当に傷ついた顔をしていたのだろうか、ユキさんはまるで子供の熱を測るときみたいに手を当てて、慰めるみたいに撫で上げた。
「おいで。……やさしくしてあげる」
この人の蜂蜜のように溶ける甘い声が好きだった。一目惚れした顔は何年経っても綺麗なままで、見つめられると胸が疼いた。ときどき後ろを振り向いて、俺のことを少しでも意識してくれるだけでよかったのに。

──健全なる精神には健全なる肉体が宿る。真っ当に生きていたら、真っ当な人間になれるはずだった。でも俺には、墓に入っても浮かばれない過去がある。誰にも話したりしない、酒をどれだけ飲んでも口には出さない。死んでも死に切れない、絶対に許せない出来事がある。そういう人間の心は歪む。
誰しもがそんな経験があるだろうか。俺のことを知って尚、俺に関わろうとする、あなたもそうだろうか。違うなら、教えて欲しい。

ユキさんとセックスをしていると、自分が誰で、ここはどこで、一体何をしているのかが曖昧になってくる。初めてしたときから不思議とそういう感覚があった。ありとあらゆる輪郭がおぼろげになっていって、自分の体がじわじわと溶けていく、ただ溺れるように快楽だけを追うようになる。
(……俺が、呪われてるのか、あんたが呪われてるのか)
ただ、ユキさんのきれいな顔が見られて嬉しいことも、本当のことだったから。
(それとも両方?)
俺は父親の血が怖い。俺は俺の、遺伝子が怖い。こうしてる今だって、まともじゃないってわかってる。
「泣かないでよ、困るから」
健全な手のひらで頭を撫でられると、ひどく安心した。心配そうに覗き込むユキさんの、その気持ちを、心を、一欠片でも俺にくれるんなら、もうこれ以上はいらないんだ。たったそれだけで、いい。
もっと撫でて、と小さな声でねだれば、優しく笑うユキさんの顔がそこにあって、そうしたら、過去の自分も、父親のことも、そのときだけは帳消しになるような気がするんだ。


# 愛 の 存 在 と 証 明 ( か た ち あ る も の / か た ち の な い も の )