千さんの家に泊まることになった。どうしてこんなことになったのだろうと大和はこの状況についていけないまま体だけが言うことを聞いていた。一緒に住んでいるという相方の百さんはバイトの終電が間に合わず、誰もいないからうちにおいでよと誘ったのは千さんのほうだった。大和はなんとなく後ろめたさを感じながらその部屋に踏み入り、そうしてごちゃごちゃした床で雑魚寝を強いられた。まさか布団が一つしかないなんて聞いていなかったからだ。もう遅いし抗議する気力も失せて、黙って横になった。 エアコン代を節約するために窓を開け、千は一人だけ涼しい格好に着替えてタオルケットを横にしてお腹にかけた。余った部分を渡されて、無言で大和も気休め程度にそれをかける。 眼鏡を外しても、大和の視力はそう変わらない。隣には千のきれいな横顔があった。シルエットだけでも美しい造形をしているとわかる。盗み見れば、閉じられた瞼の先に伸びる睫は女の人みたいに長くて、左の泣きぼくろがセクシーだった。大和はその光景を無意識に焼き付けてから瞼を閉じた。寝息も聞こえないほど静かな夜だった。 何分経過したのだろうか、突然窓の外から妙な動物の鳴き声がしたと思えば、別のミャーミャーという荒々しい鳴き声も聞こえてきて、それはきっと二匹の猫だった。遠くで、猫の交尾の鳴き声が聞こえる。気まずいなとなんとなく思いながら、それでも眠らなければと振り切るように固く目を瞑る。 「ねえ、猫の交尾って見たことある？」 起きているかもわからないはずなのに、話しかけてくる千は確実に大和がそう簡単に眠りにつかないことを知っている。 「……ないですよ」 ぶっきらぼうに答えて、そっけない態度を取れば大抵の人間は引くだろうに、それが通じないのが千という男だった。 「ふうん。……何ならある？ 　人間？」 大和は、かわしにくい質問には黙り込む癖があった。これ以上何も言えなくて、仕方がなく限りなく薄く視界を開く。見覚えのない天井がそこにあった。 「僕は、見てしまったことがあるよ、親同士のセックス」 千はあっけらかんと言い放った。センシティブすぎる内容に大和は驚き、それから誰相手にだってそうなんだろうと思った途端、彼らしいと腑に落ちてしまった。 「どう思いましたか」 「最初はびっくりしたけど、別に」 率直な発言に対し率直に返してみれば、当たり前の答えが返ってきた。俺なら死んでも御免だけどなと内心思いつつ、そういう飄々としているというか何事にも冷めているところが嫌いじゃなかった。 「……する？」 嫌な予感がした。いやまさかな、そんなわけがと一つの事柄が浮かび上がるが、大和は決死に否定した。それこそ両親のセックスを目撃することと同等、もしくはそれ以上だ。 「何を、ですか」 おそるおそる聞いてみれば、もぞもぞと千は横向きになって予想通りの言葉を口にする。 「セックス」 真正面から向き合う形で言われてしまい、大和は盛大に咳き込んで、真っ赤になった顔を隠せずにいた。何を考えているんだ、この人は。 「しませんよ」 拒否すると、千はつまらなそうに眉を下げて、残念そうにため息をついた。眼鏡のない素顔をまじまじと見られているのが嫌で、後ろを向いた。衣擦れの音が聞こえて、千がじりじりと近づいてくるのがわかる。大和は後ろを向いたことに対して、失敗したとさっそく後悔した。千の人差し指が大和の背中に触れ、するりと譜面を書くようになぞりあげた。なにやら文字を書いているようで、抵抗もできずにただじっと耐えた。飽きてくれれば千はからかうのをやめると大和は思ったからだ。 《 し、よ、う、か 》 背中に書かれた文字を読み取れば、そんな文字が浮かび上がった。更には追い討ちをかけるように、してあげようか、という吐息交じりのゆったりとした声が聞こえてくる。 「人をからかうのもいい加減にしてください」 怒りに震えながら絞り出した声は猫の交尾の声よりも汚い声だったろう。このままでは千の思う壺だとわかっているが、もう我慢の限界だった。 「からかってなんかないよ、興味があるだけ」 千は横になっている大和の肩を強く押して、そのまま乗り上げた。どん、と押し倒す形になって、伸びかけた鈍い銀色の髪がさらさらと笹の葉のように揺れる。誘われてるのか、これは。覗き込まれた顔は逆光でうまく見えないけれど、絶対笑ってなんかない。鋭い目線が降ってきている。 「きょ……うみ本位で、することじゃ、ないです」 「そういう言い方するってことは、嫌じゃないんだ」 唇を噛むと、先程背中をなぞった指先がそれを制止するようにゆっくりと降りてくる。 「君って可愛いね」 顔を近づけて、愛おしそうな目をしてそんなこと囁きかけないでほしい。頬からこめかみにかけて、そのまま髪へと手が往復する。普段ギターばかり触れているそれが、今は自分を撫でているなんて。 「かわいい」 抱き込まれて、耳に、首筋にあの人の吐息が当たる。こんなに心臓が早鐘を打ってうるさくてたまらないのに、ばれたくないのに、ぴったりとくっついた上半身からぜんぶの情報を読み取られそうだ。 体制を無理やり変えられて、ぎゅっと横抱きで抱え込まれて、それから胸に顔を押し当ててきた千は大和の頭を再び撫ぜた。 「鳥みたい」 さくさくと指先で梳かすと、満足そうに千は笑って、ふふ、と甘い音色を零した。 「いつも思ってたんだよね、髪型とあたまのかたち、鳥みたいできれいだなって」 ミルクみたいな声で、千は大和の心も体も蕩けさせる。大和はろくな抵抗もできずに、この夜が本当になればいいのにと願わずにいられない。朝が来れば、なかったことにしてしまうのを自分でわかっていたから。 千は大和を大和として形造る体のラインすべてを、まるで音を奏でるように十の指先で触れてはその感触を確かめていった。 （いつまで籠に閉じ込めていられるかな） 集中して聞き逃さないで、目を瞑って、感覚だけで伝える。 （いつ、羽ばたいていってしまうかな） 抱きしめられているこの子のことを思いながら、同じようにモモのこともそんなふうに思っているなんて、知ったら傷つくかな。 千は千の価値観で、自分を好いている相手のことが好きだった。それを疑問視しなかったのは、自分自身ではなく、自分の作った音楽が本当の意味で愛されればいいと考えていたからだ。 ……自分に関わる人間は、いつかいなくなってしまうから。ちらほらと雪の舞う夜空を見上げた日のことを思い出す。出会いと別れを繰り返す春も、気が狂うほど熱い夏も、綺麗な月だねと笑い合った秋も、いつかの冬も。千の愛情は降り積もることはない。 ──雪みたいに溶けて消えていってしまうんだ、ぜんぶ。 ぬくもりを一つにしても、どこにも行けない誰にもなれない二人はさみしそうな目を閉ざして、ただ夜明けを待っていた。 ＃　千 年 紀 末 に 降 る 雪 は