まだ日も暮れていない時刻に、知らない人たちにまぎれて雑踏をすり抜けていく。緩やかに落ちる陽が彼らを照らして、伸びゆく薄い影を順に追っていた。 姉さんのレッスンがあるからと部活を早めに切り上げ下校すると、いつもとは違った風景に、ふと自身が消えていくような、ここにいるのは誰でもないような錯覚を覚えた。どうして今、何の理由があってここにいるのか、立ち止まる暇もなく走り続けてきたから、そんなこと考えたこともなかったのだ。 ふいに校舎の窓からピアノの音が聞こえてきて、刻阪はそっと耳を澄ませた。ああ、この手癖は、とあまりに大事な人物の存在を思い出す。 指の引っ掛かる箇所を何度か繰り返しながら、それは前に前に進もうとしていた。写譜に向かう姿も、ピアノの鍵盤に指を下ろして、その背中が少しだけ猫背ぎみなことも、彼が弱音一つ吐かず影でずっと努力してきたのを知っている。きっと誰より、それを見てきた。 空に溶けていくピアノの音を胸に染み込ませながら、想像をする。僕がもしサックスを吹いていなくて、ごくありふれた、そう例えば右斜め向こうの男子高校生のように身軽で、背負うものもなく、音楽に情熱を注ぐこともなく、神峰と出会うこともなかったら。……普通の人間だったら。 音楽を愛する才能も、神峰に対する一種の度を超した執着も、大切な幼馴染みを守りたいという過保護な偏愛も、持ちうるすべてを手放して、自分の外側だけになった空想の人物はあまりに実のない、薄っぺらな概念だった。きっと今頃あの男子高校生のようにクラスの女子と手を繋いで、公園でキスをしたりするんだろうか。夏の夕立に降られて一つの傘に入って、気がつけば彼女の制服の白が透けていて、その濡れた素肌を見て見ぬふりしながら家へ誘ったりして? あまりにからっぽでがらんどうの、空洞だった。 神峰に会いたいな、と思った。先ほど別れを告げたばかりなのに、もう会いたい。 家へ帰ってレッスンを受けてコンクールで金賞を取って音楽大学を出て留学をしてゆくゆくはプロのサックス奏者になる、それが誰のためかなんて理由があるとしたら、彼以外になかった。神峰と共にある、僕の未来。あのとき見えた景色は今も胸の中で強烈な光を放ち、輝かしく壮大な夢を見させた。 (夢なんかじゃない) 俄に沸き立つ感情の勇敢なこと、まっすぐに姿勢を正して、尊厳さを失わないで、その高みまで僕は行くだろう。 彼がそうさせるのだ、たった二本の腕で、手で、十本の指先で、タクトを振るその一瞬。僕は息をのんで気配を殺して彼の音に言葉に心を掴む手になる、その日まで。 # 夢 じ ゃ な い |