音がする。耳に、身体によく馴染んだ音だった。
ぼんやりと瞼を持ち上げると、まず自身の後姿が目視できた。やわらかな毛布に包まれているような心地よさを感じながら、弾力のあるクッションに背を凭れて俺は穏やかな気持ちでそれを眺めていた。スクリーンに映る自分達の姿が、そこにあった。
これが今日の演奏会、最後の曲になりますと自分が念じているのがわかって、いつも通りのフォームを構え、はじまりの合図を、そうして全員を導くための右手を風を切るように振るのだった。
俺はこのころ、みんなの気持ちが手に取るようにわかるようになっていた。信頼で繋がれた絆が、齟齬のないクリアな世界で結晶になり、思想の透き通る純粋な、真実の音が鳴り響いていた。
楽譜に描かれた物語の最終章、俺は奏者に目配せし、順番に視線を合わせていく。瞬間、あまりに自然な流れですっと一音が消え去り、一人、また一人と席から立ち上がったと思えば指揮者の背後に回り、壇上へと並び始めた。それが確かに喜ばしく、またどこか寂しいことであると知っているのに、誰一人として涙を浮かべる者も、笑顔を見せる者もいなかった。精悍で凛々しい顔立ちが、旅立ちを予感させた。音数は次第に減っていき、そうして全員が楽器を下ろし残りの人物の息が続くまで、俺はその手をかざし続けた。
がらんとした席に囲まれながら、オーケストラが自分一人になっても刻阪は演奏を続け、最後の一小節、そのメロディーを持てる限りのすべてでで吹き終えると、指揮者である俺と向き合った。しんとした空気の中、二人はまず見つめ合って数秒、目だけで気持ちを伝え、それが同じであることを確かめた。音を生み出していた手と手が触れて、約束を果たしたという握手を、それから熱い抱擁を交わすのだった。鳴り止まないカーテンコールが二人を祝福するように包み込む。輝かしい未来のビジョンだった。
「美しい未来だな」
前から3列目、左から5番目の席。全てを無に還すような声がして、隣を振り返ると“管崎咲良”がそこにいた。学生服を着て、出会ったときよりも幾分か幼い顔立ちで、聡明な瞳を俺に向けている。
俺は何か言いたい気がするのに、その言葉を持ち得なかった。魔法がかかったみたいに声が出ない、音にならない。もどかしく思っていると、管崎咲良はこう続けた。
「オレの未来、ずっと真っ暗なままなんだ」
お前の目に、オレを映してくれないか。
彼は立ち上がり俺の両肩を掴んで、湖に反射する光を確かめるように俺の目を覗き込んだ。ガラス玉のような黒目には、彼の言うとおり闇しか存在しなかった。深く大きな悲しみが、終わりのない宇宙のように広がってこの世界を覆い尽くす、そんな感覚が俺を支配していた。
探せばきっと光は見つかるはずだとそう予感しているのに、手を伸ばすことも声をあげることもできず、俺はただやみくもに目を凝らし続けた。彼の中にあるはずの星を、掴みたかったのだ。心を開けども、管崎咲良の意思がこちらに流れ込んでくることもない。彼は無限に広がる宇宙であり、ひとつの星であり、何億光年先の光であり、そうして誰も追い付けなくなった、彼は孤独だった。
トン、と目覚めを促すように肩を押されて、例えば踏み切りの前で立ち尽くし、線路をまたいだ向こう側にいる彼との間に電車が滑り込んできたような、あるいは山奥の谷底に落ちそうになった俺を助け、自分だけ犠牲になってしまうような、そんな唐突な別れだった。それは拒絶にもよく似ていた。
「お前なら大丈夫」
桜が散っていくような儚さを引き連れて、彼は全てのものに微笑みかける。
「オレはお前みたいにはなれなかったから」
あいつらのこと、頼むな。
誰にも触れることの許されない、あまりに遠い場所から今にも空気に溶けてしまいそうな透明を身に纏って、管崎咲良は笑う。去り際に完璧さだけを残していくような男。
「会えて嬉しかった」
ふいに手を取られて、何かと思えば持ち上げられた手の甲に口付けを落とされる。そっと伏せられた睫に落ちる影。そのひどく優しい感触と、触れたくちびるの冷たさが、忘れられない。
ありがとうというまっすぐな感謝の気持ちが伝わってきて、まだ俺は何も、と言いかけたそのとき風が強く吹き抜けて、あっという間に視界が淡い薄桃色の花びらで埋め尽くされる。驚いて、けれどあるがままを受け入れるしかなくて、ひたすらに花吹雪が美しく舞い踊る景色を見ていた。春の嵐だった。
瞼を閉じてもう一度見開いた先にはすっかり何もかもが元通り、未来のシアターがあるだけだった。大きなスクリーンには桜の大木が一本、満開に咲き誇り、花びらはゆるやかに舞い降りていく。
時は、動き出していた。


# 心 象 ス ケ ッ チ A