いつも一緒にいたから、別にこれといって不思議に思うことも違和感を抱くこともなかった。彼が神峰翔太という人物を音楽室に招き入れたときから常にそんな様子であったし、むしろあの瞬間から彼は刻阪響という本当の自分を見つけたのではないかと思えるほどに、明るくなった。太陽につられてよく笑うようになった、今まで封をしていた感情を表に出すようになったのだ。 私の知る以前の刻阪響とは、その見かけ通り元来大人しい人物であった。揉め事が起きれば冷静沈着に物事を判断したし、大抵中立の立場を取っていた。誰にでも愛想よく笑っていたけれど、本当の彼の内面を知る人物は部員にもクラスにも存在しなかった。 どんなきっかけがあったのかは知らないけれど、彼だけではなく、また私も神峰翔太という人物には恩があった。同時に、神峰翔太にはどこか目が離せなくなるような、人を引きつけてやまない魅力があった。無意識のうちに目で追ってしまっている自分がいて、そのとき私は彼の存在を改めて意識した。私と同じように、あるいは私よりずっと熱を持った眼差しで、神峰翔太を見つめる視線に気がついてしまったからだ。 放課後、一緒に下校するためだろう、二人はよくピアノの前で待ち合わせをしていた。いつも遅くまで練習している神峰翔太の姿は見当たらず、彼はサックスの入ったケースを床に下ろし、ひっそりと佇むピアノの前に立っていた。置かれていた指揮棒を手に取り、愛おしそうにつう、と一筋撫でてみる。それから開きっぱなしになっていた楽譜を徐にめくり、人差し指と中指で音符を読み上げていく。鍵盤が押されただけのたどたどしいメロディーは、それでも誰かを思って奏でられたものだった。少しして、何してんだよと半ば呆れた様子で待ち人が現れると、他の人には絶対に見せない表情で、彼ははにかむように笑うのだった。 誰から見ても二人は特別だった。時間の経過と共に、私は彼から放たれる様々な色――頬にじわりと滲む桃色、澄んだ美しい瞳と同じ色したブルー、情熱的な真紅の赤、自分だけのものではないという嫉妬のバイオレット、信頼の証明と喜びの黄色――を感じるようになり、彼のサックスの音色もまた同じように変化していくのを少し離れたところから見守っていた。彼の音は人の心を揺さぶるけれど、このごろのそれは神峰翔太が彼の心を揺さぶることで鳴り響いているのだと、私は知っていた。 ある日のことだった。帰り道、髪留めを準備室の棚に置き忘れてしまった私は元来た道を引き返していた。すると、下校の時間もすっかり過ぎ去っているというのに、誰もいるはずのない音楽室の扉からなぜか蛍光灯の明かりが漏れていた。わずかに開かれた隙間から覗き込むと、痛、という誰かの小さな呻き声と何枚もの紙がばさりと落ちていく音が聞こえた。 自身の手をまじまじと見やる神峰翔太と、その隣にはやはり彼がいた。床にばら撒かれた楽譜をきれいによけて、彼はその指先をたぐり寄せた。ときさか、と不安げな声が行き場もなくさまようけれど、紙で切ってしまったであろう傷口に彼の唇が触れて、戸惑いだけが浮き彫りになる。神聖な行為をしているとでも言いたげなほどすました顔をしている彼とは裏腹に、神峰翔太の心は揺れていた。何もかもを見透かしたような顔で、背後にある棚に手をついて、静けさの中でそっと彼らの瞼は閉じられていく。 二人が口付けを交わしている間、私は息を殺したままその場から動けずにいた。角度を変えて再び深く口付ける合間、彼はふいに目を開け横目でこちらを見やった。わかっている、とでもいうふうに合図を送られて、私は足音を立てないようにドアの後ろに身を隠した。どくどくと心臓の音がうるさくて全身がかあっと熱を帯びていく、なのになぜか体の内側が氷の刃で貫かれたみたいにキンと冷えていく。あれは、牽制だった。彼は私の存在にいつから気がついていたのだろう。あの反応からすると昨日今日の話ではないのだろうなと予想する。 翌朝、朝練に向かう途中で私は彼とすれ違った。気まずさを拭いきれず、軽く会釈をして通り過ぎようとしていたのに、久住さんとなぜか呼び止められて、私は緊張しながらも無理矢理笑顔を作った。 「これ、忘れ物」 彼の手に乗せられていたのは、昨日置き忘れてしまった髪留めだった。どこにでもあるようなシュシュを私のものだと一目でわかるくらい彼は周囲をよく見ていたか、私を意識していたか、どちらなんだろう。 ありがとう、とそれを受け取るとじっと見つめられて、彼は私が何かを口にすることを待っていた。 「……誰にも言わないから」 「あなたなら、そうしてくれるだろうと信じてました」 ふっと息を吐いて安心したような表情をさらけ出す彼の首の付け根に、赤い鬱血の跡があるのを見つけてしまい、思わずそれを凝視した。後ろに何かあるのかと疑問に思ったのか、ちらりと背後を確認するけれどそこには何もない、いつも通りの殺風景な通路が長く伸びているだけだった。そうしてようやく彼ははっとして、自身の首元に手をやると頬を赤くして、その感情を抑えきれず笑みを零した。 所有したいんじゃなくて、されたいんだ。私は彼の様子を見ながらそんなことを考えて、瞬間ぞっとした。整った顔の美しさとは打って変わって、その内側はたがが外れたみたいに異常なものしかなかったからだ。 「私、神峰くんには恩があるの。それだけだから」 確かに、私はそういう意味で神峰翔太という人物のことを見ていたのかもしれない。自覚するより早く、儚く散った私の恋心。 「……恋愛は自由だと、僕は思うけどな」 彼の本心が、その言葉の意味が掴めず私は唖然とした。私に勝ち目なんてないことを知っていて、あえてそんなことを口にしているのか、はたまた無自覚か。 じゃあ僕は行くから、と誰にでも見せる愛想笑いを浮かべて彼は今日も神峰翔太の元へと向かう。振り返ることなく、間違いも過ちも、そのすべてを肯定しながら。私にしかわからない狂気の匂いを残して彼は光の向こうへと消えていく。 ひどい人、と私は彼の背中にレッテルを貼り、遠くなっていく後ろ姿をいつまでも見つめていた。 # 遠 く の 隣 人 |