いつものように受付を済ませ、通い慣れた順路を辿る。複雑な道のりだったが、一度覚えてしまえば迷うこともなかった。途中で体を患った人やその家族とすれ違い、世の中の人間が誰しも幸せなわけではないのだと川和は頭の片隅で考える。ワックスで磨かれた白い床が印象的な、日当たりのいい通路を抜けて角を曲がれば目的の号室に着く。
管崎と書かれたネームプレートを念のため見てから引き戸を開くと、がらんとした部屋に簡易的なベッドがぽつんとひとつあり、窓の外を眺めていた咲良はゆっくりとこちらを振り返る。個室だからか、ベッドの周りにあるカーテンが引かれていたことは一度もなかった。パイプ椅子に腰掛け、来た、とだけ伝えれば、見ればわかると咲良は顔をくしゃりとさせて笑った。
このごろの調子はどうか、なんて毎回聞くのも野暮で、どちらかというと咲良は学校の様子を知りたがったので、川和はクラスメイトのことや些細な出来事を記憶するようになった。そういう当たり前の日常を改めて言葉にすることはとても難しく、またいつ精神的な負担になるかわからなかったから川和は慎重にそれを話したけれど、咲良はほとんどの生徒の名前を覚えるくらいには、川和のクラス事情に興味を持っていた。
最近、前の席の女子がクラスの男子と付き合い出したらしい、という話をすると、近年の高校生はどこまですんだろうなあと咲良はなんとなしにぼやいた。考えなしなところは小さな頃から変わらない。どことなく気まずい空気になってしまいお互いの顔を見ないでいれば、ややあって、咲良の薄い唇がようやく動いた。
「……お前はないの、そういうの、」
視線を逸らしながら問うので、川和はふっと口の端を吊り上げる。
「あるわけないだろ」
そう伝えた瞬間の、安心して緩んだ頬が桃色に染まっていて、川和は無意識のうちにそれに手を伸ばす。時が止まったかのように部屋の中の空気が研ぎ澄まされていく。やわらかな皮膚に指先はよくなじみ、それに触れたとわかってからはじめて、まずいことをしたなと自覚する。
すり、と頬を寄せて、気持ちよさそうに目を細めた、その光景を見てしまったらもはやそれを止めることは不可能だった。手を止めて視線を合わせれば、しないの?とでも言うように咲良の目は訴えてくる。内側から沸き上がる熱のようなものを抑えきれそうになくて、結局本能に従いゆっくりと視界を閉ざしながらその唇に口付けた。今、咲良は何を考えているだろうとそんなことばかり想像しながら、何度か啄ばむように重ね合わせたあと、舌で唇をなぞった。割り込ませて、咲良の小さな口の中を犯していく。こうして俺だけが全てだと、この部屋に閉じ込めて自分しか与えることのない状況に強烈な罪悪を思ったけれど、それに少しでも興奮していることは確かだった。
顔を離せば咲良の息が上がっていて、潤んだ目尻に、頬の赤さが色濃くなって、ふわりと色気が漂ってくる。誘われるように首筋に唇を落とし、着脱が楽なように指定されている寝間着を脱がしていく。むすんでひらいて、飽きることもなく繰り返し。言葉で拒否されなければ何をしてもいいというわけではないのに、こういうとき一度だって咲良の否定的な言葉を聞いたことがない。やめてというその一言さえあれば止められたかもしれないと川和は僅かに思うけれど、どうすることが正しかったのかは今もこれからも一生誰にもわからないのだ。
思考とは裏腹に手や唇は咲良の体を愛撫することを覚え、見回りにくるはずの看護師や医者にも、知り合いにも家族にも、舞や美子、涼にだって知られずにその行為を行うことができた。痩せて不健康な咲良の体はそれでも脈打っているので、ちゃんと生きているのだと川和は確認するたび安堵する。浮いた肋骨や、日に焼けていない素肌を目に焼き付けて、ときどき夢にまで見たりして。蓄積されてはうまく消化できていないのだと、咲良が隣にいない夜に、そうして目覚めた朝に思い知らされる。
体を辿ってやわらかな腹に顔を埋め瞼を閉じると、ひとつの個体としての隔たりがなくなった気がしてなんだか落ち着く。真っ白ですべすべの腹は青年より少年よりずっと子供のそれを思わせた。
何も生まれないよ、と咲良は苦しそうに笑うけれど、俺は震える臓器を守る薄い皮膚に唇をひとつ落として、本当にそうなってしまえばいいと思いながらその声を無視した。性交渉を重ねて、昔の思い出を消すみたいに手酷くして、そんなふうに求められて分け与えて、磨り減り消耗し、そうして何もかも思い出せなくなっていく。抱いても抱いても体はからっぽのまま、咲良も俺もこの部屋から一度も出ようとしなかった。幸せだったころの記憶を痛みで上書きして、どこにも出口なんてなくて、一度ついた傷は癒えることなく膿んでいく。
「壬はさ、俺の何がほしいの?」
息を整えながら、擦り切れそうなテープみたいな声で咲良は問う。俺は少し黙って、咲良の様子を伺っている。
お前といると時々潰れそうになるんだ、と吐露するその声色はひどく沈んでいてこの世のものではないみたいだ。川和は、咲良がそんなふうに感じていることもわかっていた。それでも二人は二人のままでいることをやめなかった。
「俺、もう何も持ってないよ」
儚さの中で嘘みたいに咲良は笑う。笑ってるのに、悲しい顔をさせてしまう。
「お前が欲しい」
それはとても重たい言葉だったろうなと川和は思うけれど、受け止め切れないのなら一緒に落ちてしまうまでのことだった。
「これ以上?」
乾いた声が耳にこびりつく。咲良は誰のものでもないはずなのだ、本当は。
そうだよと、今この瞬間を永遠にして、俺は何度だってこの小さな体を抱き締めてみせるのだった。


# フ ラ グ メ ン ツ