あいつは時々、誰も知らないような顔をして遥か虚空の一点をぼんやりと見ていたりする。俺の気配を察知し振り向いたその端正な顔立ちは恐ろしく冷たく、信じてるものなんて何一つないような表情をしていた。出会ったころなんかはそれが顕著に表れていたのでほとほとわかりやすいやつだと思っていたことを思い出す。向けられた目線の、その青い眼球をかち割れば氷のように砕け、透明な凶器となって迷うことなくそれは人を傷つける。他者を断絶する目、そうして打ち明けられない孤独や寂しさを隠す、強がりな目。刻阪の内側に潜むその感情を、俺だけが知っていた。
「そういう顔、あいつには見せたりしないのか?」
ふと気になって聞いてみたはいいものの、刻阪響とは無自覚・無意識の塊なのだからこの質問はどうせ意味を成さない。
「なんのことですか」
質問の意図がわからないだけかもしれないが、案の定の回答に、ほらなと鼻で笑うと癇に障ったのか眉をひそめて一気に不機嫌顔だ。怒ってるこいつの顔が嫌いじゃないんだよな、俺は。

窓側にいた刻阪はゆっくりとこちらに向かって来、俺を近くの机に追いやると、耳を澄ませて近くに誰もいないことを確認してからしゃがみこんだ。
「どうしてこんなこと、はじめたんでしたっけ」
誰もいない空き教室で、俺のスラックスをくつろげながら刻阪は問う。
「流れと雰囲気、だな」
それも正解だったが、本当はそれだけではなかった。だってあのころのあいつが、その目がそれを欲していたからだ。
いつからだろう、周囲から才能ばかり誉められ、気がつけば誰かも知らない自分がそこにいた。他人が勝手に作り上げた虚像だった。名前だけが一人歩きして、当の自分は満たされることなんてなくて、心はからっぽのまま。そこにいるのは自身でなければ一体誰なのだ? 焦燥感ばかり募っていくのに、無駄に時間は過ぎ去っていく。誰に話したところで理解が及ぶはずがないのだ、同じ境遇の人間でない限り。はじめて刻阪を見たとき、直感的にこいつもそうなのだろうなと俺は認識していた。結局孤独なことに変わりはなくて、やがて心は荒み、渇きながら飢えていく。才能なんかよりずっとほしいものがあるのに、それが何だかわからない。自身が自身であるための確かさ、俺にとってはそういうものであったけれど、刻阪もそれは同じだったのではないかと俺は思う。匂いでなんとなくわかる、もううんざりだと、賞賛なんていらないし誰の声も聞きたくないと。そういう空気が伝染して今みたいな状況に至る、至っているのだ、そういえば現在進行形で。

ベルトの金具の音がやたら耳について、ようやく意識を戻すと集中してくださいよ、と刻阪が無言で訴えてくる。
顔を覗き込めば美しく気高さすら思わせる、少年のようなその面影はいつまでも消えないというのに、お前は汚れてしまうんだなと音羽は不思議な気持ちになる。悲しいわけではないし、それに抗おうとも思わない。ただ何かを間違えた気がしてならないだけで。
刻阪は手入れの施された指先で俺の性器を取り出し、丁寧に撫でてから緩く扱いた。そうして順を追って舌を這わせていくのだけれど、この薄い唇が自分のそれを飲み込む様がどうにも嗜虐心をそそられていけない。甚振る趣味はないのに、刻阪の少し反応し出しているそこを足で踏むとあいつは喜ぶのだから仕方ない。アブノーマルだと思う。俺も、刻阪も。

神峰翔太と出会う前の刻阪は、生きることに対して無気力だった。守りたかったものを、自分一人では守れなかったのだとあいつは言っていたな。
事を終えて、流しの前に立ちきれいに畳まれたハンカチで手を拭いている、その指先を見つめていた。サックスを吹く指先と、ついさっきまでの情事に使われた指先、石鹸の匂いが漂う清潔な指先。どれが本当のあいつなんだろうな。顔を見やればどこか憂いの表情で、刻阪はゆっくりと瞬きをする。一秒、一瞬、一呼吸。そういうのがずっと続いても不思議と退屈じゃない。お互いがよく知る空気感、寂しさを埋め合うみたいに、背中合わせで寄り添っているような感覚。
「あなたと二人でいると、昔の自分に戻った気がして」
ふいに発された言葉は枯れ葉のようにひらりと舞い落ちる。――胸が苦しいのだと、刻阪は言いかけてやめた。代わりにぎゅうと手を握り込めて、不思議な気持ちがします、とだけ口にした。
察しのいい音羽は気遣われたのだなとなんとなく理解し、どこか儚さすら引き連れて薄っすらと微笑むのだった。
「……終わりにするか」
口にしてしまえばそれで最後だった。だってはじめからこの行為に意味なんてなかった。そうしてやることが、刻阪のためだと音羽は思う。大事にしたいと思える相手がいるなら尚更だ。
「そうですね、」
刻阪は苦笑して、同意することでそれを受け入れる。
どうやって終わりにすればいいのかわからなかったから、俺たちは最後にキスをすることにした。
静かにそっと、唇と唇を触れ合わせるだけのそれをしてはじめて、傷口が染みるみたいな気持ちになる。繊細でやわらかな唇、色素の薄い肌、海の広がるような青い瞳に震える睫。そういったものを忘れてしまわないように目に焼き付けながら、こんなふうにやさしくしてやれたらよかったな、と音羽は思った。



# 愛 と リ ビ ド ー