ふと周りを見渡すと、居るはずの多くの人間はもうそこにはいなかった。三十以上の机と椅子が用意され、ついさっきまでそれぞれに着席していたというのに、みんなどこへ行ってしまったのだろう。
下校のチャイムなんてとっくの昔に聞き終えていて、生徒は家へ帰る時刻だった。放課後の教室に残ったのは、俺と刻阪の二人だった。廊下で誰かが走ることもない、真っ白なチョークが欠けていくことも、好きな異性を噂するような女子の浮き立つ声も、しない。ただそこにあるのは、雪が静かに降り積もるような音、無音だった。
会話がないことは、もう居心地の悪いことではなくなっていた。そのくらい親密になりすぎて、他人としての距離はもはや測れなくなっていた。
隣の席で、譜面に目を落としていた刻阪は振り向きざま、神峰、と俺の名前を呼んだ。氷のような透き通って美しい、一切を拒絶したようにも見える冷たい瞳、その視線が絡み付いて離れない。
どこかで踏み込み間違えたような、バランスのひどく悪い、例えばグラスに注いだ水が溢れてしまうような、危なっかしい空気。日が落ちてきて、窓からは橙が静かな夜へと変わる気配が漂ってくる。じんわりと痺れるような、ああ、真綿で首を絞める、ってことわざあったな、実際にされたらこんな気持ちだろうか。
名前を呼ばれても返事をできないでいる俺は、何か言ってくれよ、とひたすらに願っていた、こんなのいつもの刻阪じゃない。奥歯を噛み締めておそるおそる瞼を閉じ、決意を固め、息を吐く。
刻阪、と言おうとしたその瞬間、何かが壊れる音がした。実際には机と椅子が乱暴にぶつかっただけなのだけれど、目の前にはゆっくりと刻阪の顔が近づいていて、俺はそれを拒否したりできないのだった。
掠め取られるみたいに唇を奪われて、どっと押し寄せるように心拍数が上がった。指先に力を込めて握りこめるけれど、肩や口元が小刻みに震えてしまって、しまいには顔が真っ赤になってしまっているだろう。そんな俺の様子を見て我に返ったのか、刻阪ははっとして、それからばつの悪そうな表情をして目を泳がせた。
「ごめん、こんなつもりじゃなかった」
先程までの雰囲気が一転して普段の刻阪に戻った、そのことにただひたすらに安堵した。俺は頬に熱が帯びていくのを感じながらそれでも、胸の奥でじわりじわりと込み上げる歓喜の感情を止められないでいた。
「君といると、どんどん自分がかけ離れていく感じがする」
心地よいアルトの低い声がこの耳に届く、ほろ苦さが染みるみたいな音で、それは放たれる。
「神峰のことが好きなんだ」
今、はじめてわかった。そんなニュアンスだった、長らくもやもやしていた悩み事が解決したみたいに、明るく軽快に刻阪は言ったのだった。
「君の目には、僕の心はどんなふうに映るの」
きらりと光る瞳にはきっと宇宙が詰め込まれてる。ぐらりと心が揺れて、動揺ばかり顔に出て息を呑むだけの俺を、刻阪は笑わないんだろうか。一方的すぎる告白は、見返りや返事を求めているものではなかった。単純に刻阪自身を認めただけの、ただひとつの肯定にすぎなかった。だとしたら俺は、どうしたらいいんだろう。
瞬きを繰り返していれば突然手を掴まれて、刻阪はそのまま胸に抱くようにぎゅっと押し当てた。
繊細で、あまりに美しい指先。アルトサックスを吹くための気高きそれが、俺に触れている。
「僕にも見えたらいいのに」
押し込んだ気持ちが刻阪の心から、温かな体温と一緒に伝わってくる。
俺にとって刻阪は、特別なんだ。口に出して言ってしまえたら、自分なりの言葉で伝えられたら。
春のようにそっと笑う君がきれいで、泣きそうになったりするんだ、俺は。


# 透 明 な シ ー ク エ ン ス