そうだ、それは大雨の日で。期末テストも近いことから勉強会と銘打って、こっそり音楽の勉強も教えてもらえれば、と刻阪の家にお呼ばれした日のことだった。明日は休みだし泊まっていけばいいじゃない、ご両親にはうまく伝えておくわと刻阪の姉である楓さんが、そう告げたのだ。
洋風の洒落た夕食をご馳走になり、和気靄靄と人の家の食卓を楽しんだ後お風呂まで入らせてもらって、至れり尽くせりだと刻阪の部屋でくつろいでいた。シンプルな家具が多いことや、音楽雑誌が机の上に無造作に置かれているところが刻阪らしくて、微笑ましい気持ちになる。何度も来たことがあるこの部屋でも、一人でじっくりと見渡すことはなかったのでなんだか不思議な感じだ。
ドアが開いて、グレーのスウェットに身を包んだ刻阪は、タオルで頭を軽く拭きながら俺の近くに腰かけた。
後から上がってきた刻阪の濡れそぼった髪とその色っぽさにやましさを感じて、とっさに別のことを考えようとした。
「雨、やまないな」
窓に打ち付ける水滴がしたたり落ちていくのをぼんやりと眺めていた。
「そうだね」
緩やかな空気をまとっている刻阪はどこか上の空で、窓より更に遠くの一点を見据えている。刻阪は二人きりでいると時折黙りこくってしまう、まるで音楽を聴くための耳を休めるかのように。すっかり馴染んでしまったので居心地が悪いなんて思わないけれど。
やっぱりまだ譜面に触ってたい、そう言ってテーブルに向かうと背後から刻阪が近づいてくる気配を感じて、何かと思い上を向く。瞬間、ちゅっと唇を吸われて、急だったものだから俺は目を見開いたままだった。いつもならもう少しそういった空気を出してゆったりとしたキスをしてくるのに、珍しいな。
驚いて、それから何も言えなくなってる俺を見て刻阪は小さく、ふふ、と笑いを漏らした。子供みたいな顔して、甘い言葉で、俺をだまそうとしている。
「なんだよ、笑うなよ」
文句を垂れればぎゅうと後ろから抱きしめられて、それだけであたたかでやさしい気持ちになるのだ。こんなふうに求められて、救われているのは、俺のほうだ。
「ねえ、したいな」
どきん、どきんと胸の奥で鼓動が鳴り響く。したい、の意味が俺にだってわかるからだ。
キスまでは、した。舌を絡ませて下心の見えるようなキスもした。それ以上のことはもう少し大人になってからかな、と俺は漠然と思っていたのでどう返していいか迷いがあった。
「……でも俺、やり方とか、わからねェ…し」
小さな声で、うつむきながら正直に告白してしまうと刻阪は向き合って、僕もだよと観念したみたいに言った。
「触れたい、君に」
刻阪の瞳が全てを語る。何のてらいもないまっすぐな気持ちが伝わってくる、こんなふうに刻阪の誠実なところに俺はどうしようもなく甘い。
ときさか、と名前を呼び終える前に押し倒されて、ごろんと寝転がって見上げた天井の白さと逆光、ああ、こんなふうに人は獣になるんだとそう思った。
啄ばむようなキスをしながら服のボタンに手をかけて、脱がしていく。器用だなと感心していたけど、刻阪の服は誰が脱がすんだろう、とふと思って俺も彼の衣服を脱がしに掛かった。なかなか指先に力が入らずもどかしく思っていたら、指先にまで唇を落とされた。様になる、こんなときまで美しいのだから敵わない。もしも異国で出会ったなら彼は間違いなく王子だったであろう、そう思わせるほどに紳士的な動作が似合うのだ。
裸になって、頬に、耳に触れて、胸のあたりも舐められて、いじったりつねったりされる。性的なことを、している。女を抱くときの刻阪ってこんな感じなんだな、と頭の隅で思うけれど初めてだなんて嘘みたいだし、そもそも女を抱くなんていつもの刻阪からは想像もつかないのに、今のこの状況は何だ。純粋で無垢な刻阪の、まだ誰にも見せたことのない一面を俺は今、現在進行形で知る。
「よそ見、しないで、逃げないで」
は、と刻阪の呼吸が上がっている、ああ、すごく必死なのだ。いっぱいいっぱいなのが自分だけではないことに安堵するけれど、ばくばくと鳴り響く心臓の音がうるさくてもう何もわからなくなっていた。自分の喉から跳ねるような声が上がって、あまりの恥ずかしさに眩暈がする。下半身に手が伸びてきて、慌てて制するけれど間に合うはずもない。快楽の波がどっと押し寄せてきて、たまらなくなって腕で視界を覆ってしまう。どこにこの衝動をぶつければいいのか見当もつかない。
名前が呼びたかった。苦しいとき、不安なとき、いつだって俺はその名前を口にした。この熱さも限界が近い、荒い息のままがむしゃらに、刻阪、と俺はこわごわ口にする。一度できたら、もう何度だって言えてしまう。やわらかな手で扱かれて、あっという間に達してしまうと俺は涙目のままでごめんと謝った。
「刻阪は、苦しくない、」
おそるおそる手を伸ばすと、特に抵抗もなくすんなりと受け入れられてしまう。むしろ伸ばした指先が緊張で震えていて、それを気遣われてしまいそうなくらいだ。
刻阪は、恐れない。決して恐れを知らないわけではないと思う。俺の心が見える能力のことを知っても、態度を変えたりしなかった。気持ち悪がったり、しなかった。受け止めてもらえる、たったそれだけのことだけれど俺にとっては生きる喜びそのものに違いなかった。それを与えてくれた刻阪に、俺は何ができるだろうか。
「そんなに見ないでよ」
囁くみたいに、恥ずかしそうに刻阪が言うけれど、人のを観察する機会なんてそうそうないので見るなと言うほうが無理だった。たどたどしくも擦ってみると、芯が硬くなっていくのがわかる。じっと様子を窺っていると、眉を顰めて儚げな表情の刻阪って本当にすごくきれいなんだな、ずっと見ていたいなと密かに思う。でも今は刻阪に気持ちよくなってもらわないといけないのだけれど、と逡巡した結果、ようやくひらめいた。俺にもできること。
手を動かすのをやめると、薄く開いていた刻阪の眼差しが、熱っぽさを残しながらもしっかりとこちらを見据えて、それから疑問符をぽわんと浮かべた。深呼吸をひとつして、引きつる口元を近づけていく。
「わっ、神峰!何やってんだ!」
そっと舌で一舐めしてから、思い切って口に含んでしまう。少ししょっぱい味がする。刻阪は慌てて頭をそっと離そうとしたけれど、俺はやめなかった。唯一ほとんどないような知識の中浮かんだもの、フェラなんてしたことがないから、余計勝手がわからないけれど。
「神峰、無理しないでいい、そんなこと…」
あまりに頼りない声で、本当に刻阪が困惑しているのだなあと実感する。だけれど、ここはきっと強く出てもいいところだろうから。
「嫌か?」
「……嫌じゃ、ないけど…」
その言葉に俺はにっと笑って、再びその行為に耽った。粘膜のこすれる卑猥な音が鳴り響いて、自分まで興奮してしまう。何よりあの刻阪の性器を舐めているだなんて、数時間前の自分なら絶対に信じないだろう。どきどきしながらちらりと目線をやれば、刻阪は顔を歪ませているようにも見えた。
気持ちいいかと口に含みながら問えば、刻阪は、気持ちいいけど、目に毒、みたいなことをか細い声で言っていた。いつもよりずっと余裕のない刻阪を見て、なんだか嬉しくなってしまうのはいけないことだろうか。舌でなぞったり強めに吸ったりしていると、その刺激で刻阪から小さな悲鳴が漏れる。もっと聞きたいと貪欲になってしまう、こんな欲望を持つのが初めてのことで、俺は自分自身の感情に戸惑いを覚えた。
髪を撫でたり、耳を触ったりしている指先が快感の波に浚われて時折震えている。吐息混じりの刻阪は色気がありすぎて、困る。
「神峰、いく、」
あっ、と思ったときには、解放されていた。刻阪のその瞬間の表情はどこか切なくて、儚くて、官能的であるのに気品があって美しいのだった。唇を離すと、口の端から刻阪の精液がだらりと垂れた。肩で息をしている刻阪と頭がぼうっとしている俺とで、なんとなくごくんと喉を鳴らしてしまう。
「今、飲ん…」
色んな感情がごちゃまぜになったような顔した刻阪はもはや言葉にならないらしく、頬を赤らめて、それから困ったように笑った。

「神峰がこんなに積極的だとは思わなかったな」
楓さんの目を掻い潜って、今度は二人でシャワーを浴びてしまおうと再び服を脱ぎ始めているところだった。
「好きなの?」
何が、とは言わないくせに、いつもの無邪気な刻阪の純粋な問いに、ばか、と返してしまう他なかった。
激しい水流を体に浴びせながら、刻阪だからだよ、と俺は思い返していた。お前が俺をこんなふうにさせたんだ。それは言葉にはしなかったけれど、いつか彼のように臆することなく、刻阪のことが好きだと言えたらいいと思った。


# 心 と 口 と 行 い と 生 活 で