ありがとね、と彼女は薄く広がる青を見上げながら小さく呟いた。屋上のフェンスに指を絡めて、星合美子は振り返る。
ゆるやかに吹く風が初夏の匂いを引き連れて、短く切り揃えられた二人の髪をそっと揺らした。どこまでも強い瞳をしていた彼女のそれが幾分か優しくなって、星の瞬く夜空のような、澄んだ美しい視線を向けられたことに刻阪は気づいていた。
「神峰って、いいやつだね」
刻阪がああまでする理由が少しわかった気がする、と星合は胸にすっと染み込んでいく、純粋であまりにまっすぐな彼の心を思った。今考えると彼はなんて無茶なことばかりしていたんだろうと自然と笑みが零れていくのを、星合美子はもう止めなかった。
いつまでも口を開こうとしない刻阪に、そこに何らかの意図が組み込まれていることを星合は察して思わず苦笑する。
「取ろうなんて思ってないよ」
私には舞がいるもの。
前向きになってやわらかな表情を滲ませるようになった彼女の笑みは、誰しもが恋に落ちてしまいそうな、そんな魅力があった。華奢で抱いたら折れてしまいそうな身体に、隠された細い肩、日に焼けていない白い首筋、シャツの隙間から覗く胸元、世界を掴むにはあまりに小さすぎる手のひら。すべて刻阪の持っていないものばかりだった。
大体刻阪以外に一体誰が神峰を支えられると思うの、と星合は問いただしたかったのだけれど、そのまま胸の内におさめてしまう。
「わからないじゃないですか、」
刻阪は深い青に染み渡るような冷たい声で、嘆くように呟いた。
「あいつの本当の気持ちなんて、誰にも」
表情をくしゃりと歪ませて、刻阪は肩を落とした。まるで沈んでいく船みたいだった、大きな感情の渦にのまれてどうすることもできないでいる、悲しい沈没船。
「……あなた、涼にちょっと似てる」
あの人は決して口には出さなかったけれど、一人で抱え込もうとするところがそっくりだと星合は思うと、なんだかひどく懐かしい気持ちにさせられた。ゆっくりと目を閉じて“さくら”の色やその匂い、淡い音を瞼の裏に思い描く。胸が締め付けられるような、甘美であまりに崇高なそれは今もこの心に刻まれている。
――あのころみたいに、戻れなくても。
ねえ私今とても幸せな気持ちでいるの。なにひとつ後悔はしていないと自分自身に答えを与えてあげると、清々しい風が頬を撫でていく。

しばらくして、どこが似てるんですか、と疑りの眼差しを向けられているのにようやく気がついた星合は、そんな刻阪の様子がおかしくてくすくすと笑ってしまう。するとより一層刻阪の眉間に皺が寄せられていくので、慌ててごめんと謝った。
それでも刻阪は神峰にそれを打ち明けてしまわないんだなあと星合は少し意外な気がしたけれど、同時に男の子なんだなとも思って胸が切なくなる。
(いつか全部伝えられる日が来るよ、あなたも、私も)
星合はじっと刻阪の目を見つめて、宇宙の輝きを詰め込んだ瞳でそれを語ると小さく微笑んでみせた。包み込むような空が二人を青く透明に染めて、瞬きひとつで何もかも伝わるような、そんな気持ちがしていた。
「行かなくちゃ」
神峰が待ってると星合は刻阪の背中を押すと、刻阪はすっと息を吸って、姿勢を正してはいと返事をした。
交わらせた瞳の色を、その青を、誰かに分かつときまで。ゆっくりと見開いた先に見える景色が別でも、今は音を重ね合わせることができる。二人は、静かにその扉を開いた。


# 青 の 結 晶