刻阪の一方的な好意を見て見ぬふりし続けた天罰が下ったんだ、と神峰は思った。一度体を許したらあっという間だった。
話を少し前に遡ろう。刻阪はまず手順を踏んで告白をしてきた。「好きだ」と言われたので「俺も刻阪のことが好きだ」と返した。嘘偽りなく、それは紛れもない事実だった。心が見えていたから薄々感づいてはいたものの、それが一体どんな意味を成すのかまでは深く考えていなかった。
次に、キスをされた。音楽室で刻阪と居残りをしていて、帰ろうかという時分になった頃にそれは起きた。なんとなしにピアノの鍵盤に指先を置けば、不思議と教えられたメロディーがぽろんと零れ落ちていく。自分の手から音が鳴って、それが和音となりひとつの曲になる、そんな当たり前のことが嬉しくて、なあ刻阪、少しはうまくなっただろと見上げた瞬間だった。あまりに唐突なことだったので、俺は目を瞑ることもしないままそれを終えてしまった。感想としては、やはり刻阪にキスをされたという衝撃のほうが勝ったのでよくわからなかった。離れていく刻阪の整ったきれいな顔ばかり鮮明に覚えていて、唇と唇が突然触れ合った、それだけだった。
初めて出会ったときから、俺たちは距離が近かった。精神的な意味でも、物理的な意味でも。人との適正な距離を知らないというよりは意識をしていなかった、たぶんお互いに。だから俺は少しだけ刻阪を意識するようになった、やや身構えるようになったとでも言えばいいのだろうか。でもそれにしたって顔が、それはもう驚くほど近い。あのとき触れた唇が目と鼻の先だ。普段からこんなだったかな、みんなに変に思われてないだろうか。その薄く引かれた紅の色を一心不乱に見つめていると、なんだか頭がおかしくなりそうだった。
「何考えてた?」
「……別に、」
人の考えを見透かすように笑うので、刻阪にも俺の心が見えてるんじゃないかってときどき思う。
「キス、してもいいかな」
そうして刻阪は普段からは想像もつかないほどの色気を放ちながら、俺を壁へと追いやるのだった。
「なあ刻阪、こういうのもう、」
言いかけて、その先をわかっていながら唇を塞がれてしまうのだからあまりにお粗末だ。今度は自然と目を閉じた、それが降りてくるとわかっていたから。刻阪は啄むように軽く唇を触れ合わせる、こういうのどこで習ってくるんだろう。俺は不思議で仕方なかった。
こういうのもうやめよう、と言おうとしたのには理由があった。刻阪のことは本当に好きだ、家族のように大切で、今まで生きてきた中で一番大事な人だ。しかしながら、俺は刻阪のことをそういう対象で見ることができなかった。
性別の問題はあまり気にしていなかった、漠然とそういうものかなと思っていたし、愛なんて何のことだかよくわからない俺は、刻阪の情熱的な部分に流されるんだろうなという予感があったから。それよりも困ったのは、性欲というものに対して考え方が人と違っているということだ。

――俺がまだ幼い頃、そうあれは自我が芽生えてすぐのことだった。
公園で遊んでいると、他の人とは違う心の形を持った人物を目にした。ぐちゃぐちゃに溶解した心の形を持つ男が、そこにいたのだった。今思い出しても吐き気がしてくるのだけれど、赤黒く脈打つ心臓はその血管まで本物みたいに生々しくて、腐臭がしそうな、気持ちの悪いどろどろとした液体が溢れ出していた。あれは奇形だった。そういうものを初めて目にした俺は、なんで他の人と違うのだろうかと疑問に思って、なんとなしにその男の後をつけた。公園の奥には森林が広がっていて、その男はどんどん人気のない方向に進んでいく。途中で別の人物とすれ違い、一言二言交わしてそれは過ぎ去っていった。そのうちに、やめて、とか細い少女の声がして、なんだかやたら耳障りの悪い不快な男の声も聞こえてくる。その先に見たものは、複数人の男に囲まれた少女が服を剥ぎ取られ、無理矢理犯されている場面だった。子供だった俺は何が起きているのか理解できなかったけれど、その悲痛な叫びがまだやわらかな鼓膜を犯したし、少女が助けを求めていることだけは確かで、なのに目の前で繰り広げられているその行為をただ傍観することしかできないでいた。すうっと血の気が引いていく感覚だけが体を支配していて、頭の中が真っ白になる。
「おい、坊主」
瞬間、野太い男の声が頭上から降ってくる。俺はとっさに駆け出して、走って走って走って逃げた。ガキだ、ほっとけ。そんな言葉を背中に吐きかけられながら、なんとか森を抜けて公園まで戻ってくることができた。そのことは父親にも母親にも言えなかった。言葉にしようとしても、恐ろしさで声が出なかったのだ。
俺はあの日、少女を見殺しにした。後にあれがどういうことだったのか理解したとき、自身にもあの男らと同じ生殖器が備わっていることを知った。初めて精通が訪れた日、俺は自殺を考えた。どうして性欲なんてあるんだろう、どうして少女をあんな目に合わせるような、惨いことがこの世にある?
――話を戻そう。俺は、刻阪を性への対象とすること自体、穢らわしいと思っている。 性交渉とは下劣なことと頭の中で結びついているし、そういう感情を刻阪に向けられない、本当に大切だからこそできない。話があると持ちかけて、俺はそれを刻阪にやんわりと説明した。
「わかった、でも僕は神峰のことが好きだから」
刻阪は真剣な眼差しでしっかりと聞き入れたように見えて、実際のところ全く噛み合っていなかった。俺たちの距離はいつまで経っても変わらず、変わらないどころか悪化する一方だった。
どちらかの部屋でわけもなく二人きりでいると、自然と刻阪はそういう雰囲気を匂わせてくる。赤みの差した頬に、目尻にうっすらと涙をためて、それでも力強く俺を求める目で、我慢できないと言うのだった。
「これ、脱いで、それだけでいいから」
切羽詰まった刻阪がそう言って指したものは、俺の着ているTシャツだった。なんのことだかよくわからないまま大人しく従うと、刻阪はそれを奪い取ってぎゅうと胸に抱いた。そうして熱い吐息をひとつふたつ吐いて、そろそろと伸ばされた指先がズボンのジッパーを下げていく。俺の目の前で刻阪は、自慰をし始めたのだった。
あいつ、わかったって言ったよな、なのにこの状況は何だ?一体どうなってる。何度か視線を投げかけられて、ますますもって俺はどうしたらいいのかわからない。刻阪はいつの間にか汗の染みた俺のシャツの匂いを嗅いでいるし、そもそもまずにして俺で抜くとかどうかしてる。上半身裸な俺と、そのTシャツだけで?頭おかしいんじゃないのか。混乱したままそう思うのに、あれだけ穢らわしいとも思っていたのに、じっと見つめてくる刻阪の瞳が、その表情があまりに艶やかで美しいので途方に暮れそうになる。絵画を見ているような気持ちだった、美しい絵の崩壊。その欲望の矛先は、と少しでも思った瞬間、あの少女の映像がフラッシュバックして吐き気を催した。やっぱり無理だ。
(だって俺たち友達だろ?)
その言葉を飲み込んだ、純粋に俺はそう思うのに、全く同じ言葉を刻阪は言い放って俺に許しを乞うのだった。

次に欲情した刻阪が俺に求めたことは「抱きしめてほしい」だった。どうしてと問えば、体温を感じたいから、だそうだ。刻阪のすることはよくわからない。というか何かが間違っている気がしてならないのだけれど、正し方がわからない。
刻阪のことは好きだ、大事にしたい、求められるならそれに応えたい。俺は何度もえずきながらもそれを終えた。結果的に言えばそれは拷問と何ら変わりなかった。
要求は次第にエスカレートしていき、ついにはその手でさわってほしいと懇願され、視覚的に見なければ問題ないのではないかと考えた俺は刻阪の後ろから手を回して、小さな子供を抱くようにそれを行った。見えない分だけ動きや感触が生々しくリアルに感じられて、とうとうその場で嘔吐した。刻阪はそれすら愛おしい様子で俺を労わった。
今思えばどうして最初から拒否することができなかったのか不思議でならないのだけれど、俺はどうしても刻阪を見捨てることができなかった。
「お願いだ、抱かせてほしい」そう言われたときですら、即座にそれを拒絶することはないのだった。
これが愛なのか?俺は何を履き違えているんだ?思考はめまぐるしく回転してはねじれていく。現実味がないまま俺はあっという間に身ぐるみを剥がされてしまい、そうして与えられる刺激のすべてが不快感に繋がっていく。やめろ嫌だと訴えても、刻阪の欲望は止まることを知らなかった。刻阪自身それをコントロールできないようで、苦しそうに喘ぎながら、神峰、好きだ、好きなんだと何度も言いながら俺を犯した。
あのとき少女を救えなかった、これはその罰なんだ。そうしてあの男たちを思い返しては、死ね、今すぐに死ねと俺は刻阪のことを呪いそうになる。快楽に溺れて汚ならしい欲を打ち付けるだけの、あまりに身勝手なそれを俺は許せない、一生許すことはないけれど。
「勝手にイけよ」
涙でぼやける視界の中、捨て台詞を吐いた。もう何回出されたかわからなくなっていたし、心が憔悴しきっていた。もしかしたら俺は今映画か何かの中にいるのかもしれないな。本気で抵抗できなかったのは、やっぱりどうしようもなく俺は刻阪のことが好きだから、そうして刻阪と本当の意味でセックスできないことを負い目に感じているからだ。
「気持ちよかった?」
問えばひどく傷ついた顔をして、それでも刻阪はうん、と頷くのだった。憎かった、刻阪も自分も、ありとあらゆる全てが。
刻阪は震える声で俺の名前を何度も呼んだ。まるで壊れた機械みたいにそれは繰り返されるのだった。額に張り付いている髪を分けて、汗を拭うと刻阪の形のいい後頭部を撫でてやる。そのまま抱き寄せると刻阪はふっと緊張の糸をほどいて、俺にその全てを預けてしまうんだ。
(泣きそうなのは、謝りたいのは、許されたいのは)
ごめんな、と胸の奥底で思う。たぶん刻阪も同じ事を思っていた。俺たちは決して一つにはなれないのに、その気持ちだけは重なるのだ。そっと指先が何かを探し求めるようにこの手に触れて、ゆっくりと隙間を埋めるみたいにそれは絡まっていく。がんじがらめだ、と思う。
虚しさに打ちひしがれながら、それでも俺は刻阪のその手を握り返した。


# が ん じ が ら め