※Attention※

モブ(女)が主役の話です。捏造を多く含みます。

・楓さん×モブの百合
・刻阪響がゲイで、女装する話
・モブ×刻阪響

上記のような内容ですので、なんでも許せる方向けです。
ご注意ください。









それは彼の唐突な発言から始まったのだった。
「そういえば姉さんの知り合いで教員になった人っていたよね? 谺先生じゃなくてさ」
窓からやわらかな陽の差し込む、ゆったりとした時間の中で二杯目のフレーバーティーを入れようとしていたときだった。刻阪楓はぴくりと眉を動かして、それから口をつぐんだ。つい先ほどまで穏やかに午後のティータイムを楽しんでいた二人だったが、どちらかの様子が急変したことにもう片方はまだ気づいていない。動揺を悟られないように自然な動作で二杯目を注ぐと、ポットの中で茶葉が開きすぎてしまったようで、白いカップの内側に色濃い紅茶の色がたぷんと沈殿していった。翳っていく自分の心みたいだと楓は思った。
「進路のことを考えて色々勉強しようと思うんだけど、相談に乗ってほしくて。語学や学科の勉強も兼ねて、休日の数時間でいいから教えてもらえないかなあ」
頼み事をするときの甘えたような声は弟の特権だった。楓はやや渋い顔をしたまま、無表情でなめらかな曲線を描いたカップの持ち手に指を滑らせる。機嫌を損ねるといつだってこうだった。刻阪楓は語らない。氷のようなひどく透き通った瞳をそっと伏せたまま、その冷たい視線が刺すように向けられた瞬間、誰であろうと牙を向く。返事をしようとしない姉に痺れを切らして、大学のころよく遊びに来てたじゃないか、と催促するように言うとようやく楓は重たい口を開いた。
「あの子は……」
迷うような声色だった。品よく持ち上げられていたカップが渇いた音を立てて下ろされていく。
「あの子よりもっといい人を紹介するから」
避けるような言い方に、響は納得のいかない様子で反発した。
「どうして? 知らない人より面識ある人のほうが気兼ねなく聞けるし、教師なんだろ? 大学のことも聞けるし打って付けじゃないか」
響は覚えていた、数年前に家に何度か訪れた人物のことを。珍しく姉が気を許していた数少ない友人の一人だった。挨拶くらいしか交わさなかったけれど、一度だけここで夕食を共にしたことがある。客人と食事なんてしばらくしていないから、懐かしいななんて思い返していた。
「最近あの人の話題聞かないけど、連絡取ってないの?」
「そんなことないけど、」
なぜか躊躇ったように、沈み込むような色を纏って、彼女にしてはあまりに覇気のない返事でそれは返される。一週間ほど前だろうか、ちょうど一通の手紙が届いていた。その内容をそらで言えるほど何度も読み返していた楓は僅かに顔を歪めた。
「……ケンカでもしたの? なんで?」
こうなると響は厄介だ。年相応の純粋無垢さを盾にして、こちらの意思を無視して干渉してくるからだ。
「わかったわよ、聞いてみるだけ聞いてみる、それでいいでしょう」
久しぶりに押し負けたな、と楓は思いながら居心地の悪くなったリビングを後にする。自室のドアを閉めて、ずるずるとその場にへたり込んだ。そうして首を項垂れて、胸の奥底にしまっていた思い出が鮮明に蘇ってくるのを必死に止めようとしていた。

* * *

私は一通の手紙を出した。今も海外を飛び回っているであろう、一人の友人に向けて。 もう一生会うことはないかもしれないし、手紙の返事が来るとも思えなかった。彼女の目に触れるかもわからないけれど、それでもよかった。
――過去は変えられない。だから私は、懺悔しない。そこに書かれていたのは何の変哲もない、ごくありふれた内容の手紙だった。
そうして突然鳴った携帯の通話ボタンを押してしまえば、久しぶりに聞いた彼女の声色が穏やかで意外にも明るかったこと、何度か会ったことがある弟くんの家庭教師と進路相談を引き受けることにした。
元気にしているかな、そっちでの暮らしはどう? やっぱり刺激的? 話したいことがたくさんあるよ。連絡をくれたことが嬉しくて、塞き止められていたダムが一気に解放されたときように、気持ちが濁流のように溢れてくる。会いたいな、と思った。もう彼女は私のことなんてとうに忘れたかしら。そうだといい。

刻阪と書かれた表札を前にして、何年ぶりかなと指折り数えようとした。最後に来たのは……。懐かしさで埋もれそうになって、考えるのをやめた。玄関前の咲き誇るガーデンをくぐって、ベルを鳴らせば刻阪家の姉弟が迎え入れてくれた。その並びはあまりに美男美女で、雰囲気や笑い方から育ちのよさすら感じられる。
「久しぶり」
少し大人びた顔つきになったけれど、今も変わらず音楽を愛し、その姿勢は変わらないままなのだと見合わせた瞳でわかる。内心ほっと胸を撫で下ろした。
「ああ」
「相変わらず無愛想ね、もっと笑ったら?」
今をときめくヴァイオリニストがこんなんじゃ、日本の未来も終わったわね。
ああ、ごく自然に話せているしなんだか昔に戻ったみたい。ぶっきらぼうで誰にも心を開こうとしなかった彼女が、はじめて私に笑いかけた日のことをふいに思い出す。
「今日はありがとうございます、よろしくお願いします」
「響くん、大きくなったね。こちらこそよろしくお願いします」
礼儀正しく頭を下げられて、両親の教育の賜物だなと感心してしまう。身長もぐっと伸びて、細身なところは変わらないけれど今の彼からは自信に満ちたオーラを感じた。少年はこうして大人になっていくのだろう。
久しぶりに友人が来訪したというのに、始終だんまりを決め込んでいる姉の様子に違和感を覚えて、どうしたの、と響は視線を向けたがそれはあっさりと躱されてしまった。

教員免許を持っているから真似事でもないのかもしれないが、家庭塾のようなそれはつつがなく進んでいった。彼はどんなことも大抵素直に受け入れてしまうし、柔軟で順応も早かった。クラスに一人はいる模範的なよい教え子だった。ただ、一種の危うさも含んでいるような、どこか不安を拭いきれない、そう思わせる子だった。まっすぐすぎて時折心配になる、自分の信じた道が閉ざされ暗闇の底に落とされたとき、彼はまた正しい道に戻れるだろうか。引き上げてくれる友人が、そこにいるだろうか。
「将来はサックス奏者になりたいんだ?」
はい、と響は即答した。迷いのない、けがれを知らない目をして。
「姉さんのように、がむしゃらに突っ込んでいくやり方はできないから、どんなふうに近づいていったらいいかなって考えているんだけど」
「やっぱり大学に進むといいよ、色んな出会いがあるし、知識もつくし」
彼の評判は私の耳にも届いていた。中学時代にベルリンのオーケストラと共演するくらいだから当然だろう。ベルリンの件は現地に姉がいて話がスムーズに進んだ経緯もあったが、事実彼は高く評価されていた。
「……自ずと道は開けていくと思う。アドバイスできなくて申し訳ないけれど、君はありふれた、ごく普通の人生は歩まないと思う。楓もそうだったけど周りが放っておかないよ、それをどう選択して、君が自分にとって最高に素晴らしいものにできるか、それだけのことだよ」
楓、と自身の姉を呼び捨てにする人間は両親しか知らないものだから、響はかすかに胸がどきりとした。
なんか偉そうなこと言っちゃった、と恥ずかしそうに笑うと一気に和やかな雰囲気に引き戻されていく。嘘がつけないタイプの人間だな、と響は判断した。
「私の教え子でまだプロの奏者になった子がいないんだ、キャリアも必要だしね」
だからもしかしたら、響くんがそうなるんじゃないかって、今の私はちょっと期待してる。そう言われて、響は今回ばかりは謙遜しなかった。代わりにありがとうございますとだけ答えた。そうだったら嬉しいと本当は思っていたし、この人の前ではなにもかも見抜かれてしまうような、そんな気がしていた。
「ひとまず大学の志望校を絞ってみようか、響くんだったら海外も視野に入れていいと思うな」
そうして手持ちの大学の資料を開いたり、それぞれの学校の特色や学科のこと、そのキャンパスにしかない設備、有名な先生の話をしてその日の授業は終わった。大学と聞いて響はふいに思い出す。姉さんが在学中、特に一、二年のころはよく家に来ていて、とても親しい関係だったように見えた。この人と姉さんの間に何があったのだろうと響は気になっていたけれど、ついぞ口に出すことはなかった。
荷物をまとめ、帰る準備をしながら私は個人的な質問をした。
「好きな人はいるの?」
突然の脈略のない質問に響は一瞬驚いて、それからゆっくりと花弁が開くように、じわりと頬を赤く染め上げて、はいと返事をした。姉弟共に表情を隠しきれないで笑うところが、よく似ていた。
部屋を出ると、抜群のタイミングでそれはやってきた。
「お茶でも飲んでいけば」
通路の向こう、リビングの壁に寄りかかりながら楓は待っていたのだ。素直じゃないな、と思わず頬が緩んでしまいそうになるのを抑えて、私は彼女の元まで駆けてゆく。

――あ、ペンを返しそびれてる。まだいるかなと自室を出てリビングの扉を開けようとすると、誰かが話している声が聞こえてきて、響は思わずその手を止めた。
「ねえ覚えてる?」
盗み聞きは趣味じゃないけれど好奇心のほうが勝ってしまい、響はその場に留まり聞き耳を立てた。
「あなた初めて出会ったときも、そんなふうに無愛想な顔していたわ」

私の家系は音楽一家だった。幼いころからピアノを習うことはもちろん、その人物に適した楽器を持たされ、半年に一度は一族で演奏会が開かれる始末だ。五歳の私はヴァイオリンを生涯の友にするよう約束されていた。家族とのコミュニケーションはほぼ音楽を通じて行われた。両親は私に厳しかった。私には、才能がなかった。勿論努力していたから、何も知らない知人にはどうしてプロの道に進まなかったのとよく尋ねられるが、神様に選ばれた人間の生み出す音は、私のそれではなかった、それだけのことだった。しかしそんな環境から逃れることはままならず、音楽大学に進むことは必然だった。私はせめてもの救いを求めて叔父が大学教授をしている学校を選んだ。私は小さなころから叔父を好ましく思っていた。両親とは違って音楽を押し付けてくる人間ではなく、ありのままの自分を見てくれたからだった。
そうして入った大学で私は刻阪楓と出会う。周りから一目置かれ、どこか孤立していた彼女はとても不器用な人だった。女性らしい格好もせず、夏なんかはTシャツとジーパンでやってきたし、自分から話しかけるということをしないので寡黙な人物と思われていた。それでもやはり演奏の実力は本物だった。初めて楓のヴァイオリンを聴いたとき、落雷が体の真を貫くようだった。私から音楽というものを取り除いたら一体何が残るというのだろう。
日頃から叔父が忙しくしていたというのもあって、同じ大学に入学した私は時折彼の雑用を手伝わされていた。実を言えば事務補佐のような仕事が嫌いではなかった。音楽関係の職業に就くよりよほど向いていると思い始めていたころだった。
その日私は準備室から大量のスコアを運ぶよう頼まれていて、頭の高さまで積み上がった冊子を抱えよたよたと覚束ない足取りで歩いていた。該当の教室までやや距離があったため、ニ往復するのを避けて一気に運ぼうとしたのが失敗だった。思った通り階段でバランスを崩してしまい、紙の束がばらばらと床に散らばっていく。かろうじて被害は少なかったが、それでも自分に落胆しながら一度荷を下ろそうとしたそのときだった。通りがかった誰かの白い指先が、それに触れた。いつもラフな格好をして退屈そうに授業を受けている、なのにヴァイオリンを手にした瞬間、私の世界を変えてしまう人。刻阪楓が目の前にいた。彼女は私のことを同じ学科の人間だとかろうじて認識したようだった。そうして拾い上げたスコアのタイトルを見て、ピンときたような顔をしたのを私は見逃さなかった。
無情にも大量のスコアを元通り積み上げ、そのまま立ち去ろうとする刻阪楓に私は何か言ってやりたかった。しかし彼女に言うべき言葉も伝えたかったことも、とても一言で収まりきるようなものではなく、さらさらと砂のようにこぼれ落ちていく。
「……手伝ってくれてもいいじゃない」
去りゆく彼女に向かって唯一呟くように、発せた言葉がこれだった。声が届いてしまったのかくるりと振り向いて、刻阪楓は無表情のまま登ったはずの階段を降りてくる。あ、怒らせたかなと私は覚悟したのだけれど、意外な言葉が私を待っていた。
「どこに運ぶの?」
その日をきっかけに私と楓は距離を縮めていき、面識のある人から友人へと変わっていった。はじめこそ楓が何を考えているのかわからなかったけれど、一緒にいるうちに楓ははにかんだ笑顔を見せるようになったし、ヴァイオリニストとしては常に私に背中しか見せなかった。
どこまでゆくのだろう、と私は思った。いつまでも彼女の未来を共に見ていたかった。私は彼女と友達でありながら、尊敬の念を抱き続けていた。今も尊敬しているし、ひとりの友人でありたいと、そう願っている。

* * *

ある日の午後、いつも通りサックスの練習をしていた響は新しく手に入れた楽譜を読み込んでいるところだった。弾きながら、ああでもないこうでもないと思案していたが、何小節かどうしても判断に迷う箇所が出てきてしまい、姉さんだったらどんなふうに解釈するだろうと響は彼女の部屋を訪れた。
「姉さん、いる?」
ノックをするも、返事がない。出掛けてるのかなと部屋を覗くと、突然視界にぱっときらびやかな衣装が飛び込んできた。なぜだか胸がどきどきして、意識していないうちに足がふらふらと吸い込まれていく。強烈に沸き上がる得体の知れない感情に響は戸惑いを覚えたが、それを止めることができないことも頭のどこかで理解していた。姉のオーケストラ用の衣装がそこにあって、響はおそるおそるそれを手に取り自身の体に当てた。なめらかなシルクの材質の、薄桃色のやわらかな雰囲気が華やかさを演出していた。きらきらと胸元で光る宝石の飾り。合わせ鏡に映る自分の姿を見て、心臓の鼓動が激しくなっていくのを感じながら、これを着ている自分を想像してみる。かっと頬が熱くなって、目を見開いたときには慌てて服を元の位置に戻した。
(僕は何をしてるんだ)
響は我に返って自身の行動を恥じたが、それでも高揚した気持ちを殺すことができないでいた。

その日は珍しく、朝からスーツをぱりっと着こなした楓がいて、響は思わず今日はどうしたのと話しかけた。
「大学に講師として招かれたのよ、柄じゃないのに」
OBだからって簡単に引き受けてもらえると思ったら大間違いなんだから、と言いながらもその顔はどこか嬉しそうで、響は微笑ましい気持ちになる。
ミニトマト一口ちょうだい、と人の皿から赤いそれを奪うと、飴か何かを食べる仕草で口に放り込んだ。これから教鞭を執る人のすることとは思えない、と響は静かにため息を吐いた。朝食ちゃんと食べていきなよ、と注意しようとしたが、そんなことよりも重大な事実に気がついてしまった。
「時間、大丈夫?」
そう問いかければ時計の針の指す時刻を見て、楓は小さな悲鳴を上げる。騒がしい朝だな、と食後のコーヒーを飲みながらその様子を見届ける。姉さんは渦のように人を巻き込んでいく。今となってはエネルギッシュなタイプの人間だけれど、昔は少し違っていた気がする、と響は思う。実弟に対しての接し方には差がないけれど、他人に対しては内に秘めたものを出そうとしなかった。バリアを張っているような、孤高であろうとするような人だった。変わりはじめたのはちょうど、あの人が家に来るようになった頃からだ。
「いってきます!」
鞄を引っ掴んで飛び出して行った姉を見ながら、それでも活躍を買われてそんな話が舞い込んできたことを誇らしく思う。家では始終、こんな感じだとしても。
「いってらっしゃい」
刻阪家の日常は大体いつもこんなふうに幕を開け、それを下ろすのもまた彼女の存在なくしては成し得ないのであった。

午後になり、一日オフの予定だった響は暇を持て余していた。本当は英語とドイツ語を教えてもらう予定だったのだが、肝心の家庭教師が姉と同じ大学だったこともあり手伝いに呼び出されたようで、先ほど断りのメールが入ったからだった。両親も結婚記念日だからと二人で旅行に出掛けてしまい、とうとう家に一人きりとなってしまった。はじめのうちは大人しく机に向かっていたが、普段から勉強をしている響は応用と復習の問題を解き終えてしまい、一休みしようと飲み物を取りにキッチンへ向かった。すると、開いたままの姉の部屋が目に入ってきて、歩いていたはずの足がぴたりと止まる。扉の向こうで笑うように艶めいている、あのときの衣装がじっと響を見つめていた。
あ、と思ったときには手遅れだった。ぎゅうとその衣装を抱き締めながら、その滑らかな肌触りや微かに残る姉の香水の匂いを肺に満たして、響は少し泣きそうになる。そうして自身の衣服に手を掛け、身につけていたシャツをゆっくりと脱ぎ始めた。ぱさりと床にそれらは落ちていき、若々しい素肌が露になっていく。衝動に任せてしまっていたから罪悪なんて感じる余裕がなかった。胸元を見やればいつもと違う色彩が広がっていて、心臓が破裂してしまいそうになる。背中のファスナーをなんとか上げると、足元がなんだか心許ない感覚、ふわりと揺れるスカート。鏡に映った自分の姿を見て、ただただ純粋に嬉しかったのだ、込み上げてくる感情に名前をつけることができないまま、響はゆっくりと恍惚のため息を吐いた。
そのとき、ふいに玄関から物音がして、響の顔からは一気に血の気が引いていく。誰か帰ってきたのだろう、ぱたぱたと走る足音がする。この家族の者ではない歩き方だった。そうして響は一瞬ですべてを悟った。――逃げられない、隠れるところもないし着替えるだけの時間もない。諦めて、呆然と立ち尽くことしかできないでいた。
「響くんいる? 楓が今日使うはずの資料忘れちゃったのよ、もう、あの子ったら」
そう言いながら、彼女がそのドアを開けた瞬間、彼はあまりに冷たい目をして、自分の持つ小さな世界が壊れていくのを見届けようとしていた。彼女はまず自分の目に映ったものを疑ったが、そこにはまぎれもなくドレスを身に纏った友人の弟の姿があった。時が止まったかのように体を硬直させて言葉を失ったまま、何と声を掛ければいいのか悩んだ末に、自分を落ち着かせるように震える声を振り絞る。
「……ごめんなさい、私、こんなつもりじゃ」
まるで息をしていないかのように沈黙を貫いている彼はいよいよ口を開こうとはしなかった。こうして黙っていると、綺麗な顔立ちが際立って美しく映える。絶対零度の表情で彼はいつまでもそこに佇んでいた。頭の中が混乱していて正常な判断ができないでいたが、当初の目的を思い出してはっとする。
「急いでるから、行くね」
使う予定の資料を机の上からさっと取り、私はその場を後にした。
(びっくりした)
電車に揺られながら先ほどの出来事をどう捉えるべきか考えていた。ちょっとふざけて遊んでみただけかな、なんて考えるけれどあのすべてを諦めたような、悲観したような目が強く物語っていた。私は見てはいけないものを、見てしまったのだ。今日のことは自分の胸の内だけにそっとしまっておこうと決めて、私は彼の姉が待つ大学へと向かった。

約束の日がやってきて、多少のぎこちなさはあれど以前と同じように勉強を教えていた。並んで机に向かっていると、シャープペンシルの走る音だけが二人の耳をさらさらと撫でていく。彼はいつもと変わらない様子で問題を解いていたが、ふいに手を止めてこう言った。
「僕、男の人のことが好きかもしれないんだ」
さらりと唐突に口にされたそれは、きっと思い悩んだ末にたどり着いた答えのはずだったろうに、あまりに簡単にこの空気に馴染んだ。女の子のそういうの見てもいまいちピンとこない、と囁くような小さな声で言ってしまうと、響はペンを少しだけ強く握り締める。なんて姉弟だろう、と私は思った。二人していばらの道を行くのね。
「僕、おかしいのかな」
海の底に沈んでいくような悲しげな声色で、瞳を揺らして響は僅かに顔を歪めた。本当なら今すぐにでも、抱きしめてあげたかった。そんな衝動に駆られながら、私は代わりにあいているもう片方の手をぎゅっと握って、目線を合わせた。深い深い青が私を覗き込んでいる。
「そんなことない」
まっすぐに否定してしまえば、いくらか表情をやわらげて彼は次の言葉を待っているようだった。
(いつかすべてわかる日が来るわ)
時間はかかるかもしれないけれど、未来でこの子が笑えていればいい、そう心から願う。今はただ芽生え始めた自意識を見守ることしかできないけれど。
「人と違っていてもそれが間違いだなんてこと絶対にない。あなたはあなたのままでいいのよ」
そう微笑んで、精一杯の強さでそれを教えようとした。私は彼に安心してほしかった。存在してもいい理由を、楓に与えられなかったものを、彼にあげたかった。響はそうしてありがとうと少し涙ぐんで照れたように笑う。年相応のやわらかな笑顔がまっさらな心を体現したように、向けられた。

* * *

はい、これと差し出された紙袋を見て響は疑問符を浮かべた。中を見るとパステルカラーの洋服が入っていて、それは明らかに男性用のものではなかった。彼は驚いて、それからどんどん困惑した表情になり、ついには恐い顔つきになっていく。めまぐるしい表情の変化を見届けると私は覚悟を決めた。
「ふざけてるんですか」
「違うよ」
想定内の反応だった。馬鹿にされてると思うのも当然だろう。
「……君に着てみてほしくて」
本心をそのままに伝えることはなんて難しいのだろう。まるで悪いことでもしてるみたいに気弱な声はそれでも居場所を求めてさまよい続ける。
「迷惑です」
眉をしかめてきっぱりと言い放つ、彼の話を聞かないで私は続けた。
「洋服ダンスの整理をしていたらいらない服がたくさん出てきちゃったの。捨ててくれていいからさ」
楓には私が忘れていったって言えばいいし、とそこまで言い終える頃には、彼は限界に達してしまっていた。
バンと机を叩きつけて、うつむき歪めた顔を髪で隠してしまうと小刻みに肩を震わせて、爪が食い込むほど指先を握り込めた。いつもはしゃんと伸びているはずの背中が丸みを帯びていて、なんだか切ない。
「ごめんね、怒らせるつもりじゃなかったんだ。ただ単純にあのときの君の姿が、とてもよく似合っていたから」
忘れられなくて。本当にそれだけなんだと伝えたいけれど、きっと理解されないという事実を思って悲しい気持ちになる。彼は色んな感情を織り混ぜた瞳で、それでも私を睨み付けると、ぐっと唇を噛みしめて反抗を訴えている。
(怒った顔も、楓に似てとてもきれいね)
いいじゃない、どんな服着たって。ぽつりと雨音のように落ちて弾け飛ぶ、グロッケンの一音のようなそれはふわりと彼の胸に着地する。
「あなたははじめからずっと自由よ」

* * *

あんなことがあった手前、もう呼んでもらえないかなと予想していたものの一向に携帯電話が鳴ることはなく、その日も刻阪家の門をくぐった。いつも通り挨拶を交わし、日替わりで出される紅茶を一口いただいてちらりと横目で彼の様子を伺う。
「はじめようか」
頷きも肯定もなく彼は普段サックスを吹いているその指先でペンを握った。こうしてるとただの一人の男子高校生でしかなくて、私はその事実にどうしようもなく胸が痛むのだった。私も高校生だったころは早く大人になりたかったな。懐かしく思っていると軽いノックの音がして、楓がそっと顔を出した。
「数時間したら帰るかも、あとよろしくね」
そうして玄関の扉が閉まる音がして私たちは静寂に包まれる。ぴりぴりとした緊張感が漂っていく、演奏が始まる直前のようなそれが続いて息が詰まりそうになる。
「行っちゃったね、静かになるね」
少しでもその雰囲気を和らげたかったのだけれど、響はいつまでも机上の練習問題から目を逸らさなかった。それからぴたりとその手を止めて、静けさに染み込むような澄んだ声でこう言ったのだった。
「考えてみたんです」
響は立ち上がり、クローゼットを開けると手のつけられていない紙袋からそれらを取り出した。おもむろに服を脱ぎ出すと、日に焼けていない素肌の白さやほどよくついた腕の筋肉に思わず見惚れてしまいそうになる。眺めている場合ではないとはっとして後ろを向くと、聴覚だけ取り残されてそれは行われた。
衣擦れの音が止んで、もういい? と問いかければ返事は止んだままだった。振り返ると、そこに確かにあのとき美しく咲き誇る彼の姿があった。薄手のカーディガンを羽織って、群青色したスカートの端をゆるく掴んでいる。気恥ずかしそうに目配せしている彼の頬が僅かに上気していて、胸の高鳴りがこちらまで伝わってくるようだった。私は彼の足の爪先から滑らかな曲線を描くふくらはぎ、締まった細い腰、雪のような素肌に浮き出る陰影の、鎖骨や首筋の美しさ、木の枝のように長く伸びた腕やささくれひとつない指先、きちんととかされた髪に映る天使の輪までをじっくりと観察した。確かに体のつくりは男の子なのだけれど、彼の持つ大人しそうな見た目や、滲み出るどこか儚げな印象がそれを思わせなかった。
「うん、やっぱりすごく似合ってる」
満足げに呟けば、彼は鏡の前でじわりと広がっていく感情を抑えきれない様子で嬉しそうに微笑んだ。これもと自分がしていたネックレスを外して、首の後ろでチェーンを止めた。触れた肌から微かに石鹸の匂いがして、こんなの反則、と目眩がしそうだった。
「あのときはごめんなさい」
「ううん」
素直に謝ることができるのはこの子の美点だなと私は思うと、ふと彼の清楚な服装を見て、ピアノの発表会を思い出した。
「それより響くん、ピアノ弾けるよね?」
クローゼットの近くで眠っているアップライトピアノを指して、ね、お願いと促してしまえばこちらのものだ。楓という姉を持つ以上、年上の女性からの頼み事は断れないのだと私は知っていた。
「弾けるかな」
そう言いながら鍵盤に指先を下ろし、目を細めた瞬間ふっと漂うオーラがまるで別人で、鳥肌が立ちそうになる。音に触れようとするときの集中力や、その眼差しがもはや普通の人とは違うのだった。音楽に愛された子供。きっと自身の姉をも追い越して、彼はその高みで世界と対峙するだろう。
私は隣の小さな椅子に腰かけて譜面をめくる準備をした。いいよ、と目線で合図を送ると、それはひどく繊細な一音から始まるのだった。
ねえ君は、誰を思ってこの曲を奏でているの? 他の物音を立てただけで壊れてしまいそうな、刹那的な美しさを胸いっぱいに満たして、私は気持ちを落ち着かせるようにゆるゆると息を吐いた。心の奥深くをそっと撫でていく、なんてやさしい音。不意をつけば泣き出しそうで、そうならないように堪えるので精一杯だった。

姉さんが帰ってきちゃうから、と服を着替えると元通りの男子高校生・刻阪響に戻ってしまった。名残惜しい気もしたけれど、きっとこれでよかったんだろう。そろそろ時間かなと腕時計を見やれば、もう少しだけいいですか、と珍しく呼び止められた。
――相談があって、と打ち明けられたのは同じ部活に所属している神峰翔太という人物についてだった。彼の才能やそのすごさについて話す彼の瞳の煌めきがまぶしくて、まだ青い果実を頬張った気持ちになる。そうして響が彼に出会ったのは運命なのだと、そう前もって決められた定めのようにも思うのだった。彼がいなければ響はサックスを、音楽を続けることはなかっただろう。音楽の道を途絶えた彼の未来は一見幸せそうに見えて、その実空虚で満ちている。それこそ今の彼からは想像もつかない、普通でありきたりな人生だ。
集合写真を見せてもらうと、神峰翔太という人物は中央でなんだか照れ笑いしている、オフショットのようなそれはとても和やかな雰囲気で、仲間と打ち解けている様子が伺える。純粋でいい子そうだな、響はこの子に救われたのだろうなと漠然と思った。話を聞いていくうちに彼の顔が苦しそうになったり頬を赤らめたり、私が助言する必要がないくらい、もうそれは誰がどう見ても『恋』そのものだった。
「あいつといると胸がドキドキするんだ」
彼は気づいているのかいないのか、無自覚な様子で口にする。ねえこの気持ち、と言いかけたところに、突然玄関から大きな物音が聞こえてきて、彼の姉である楓が帰宅したことを知らせた。
「響、……あれあんたまだいたの? いいから手伝って!」
嵐のように破天荒な彼女が、真夏みたいに笑ってる。
いつもこうなんだ、ごめんなさい。また今度、と口元に人差し指をひとつかざして、彼は内緒話をやめてしまった。

* * *

県外へ出て片道一時間半。新幹線を降りるとそこは多くの人で溢れており、はぐれないでねと私は声をかけた。子供じゃないんだから、と言い終わった後に気づくけれど、彼は然して気にしてもない様子で、それよりも東京という地に降り立ったことのほうがずっと刺激的に映るようだった。大きな楽器店を見たいという彼の希望もあって、先にそちらを回ることにした。一緒に歩いていると年の離れたカップルに見えなくもないかなと一瞬思うけれど、楓といるから慣れているのだろうなと容易に想像がつく。
人の多さに辟易しながら、路地を曲がると階段が見えてきて、やや息を切らしながらそれを上りきり透明なガラス戸の開けた先、コントラバスの大群を抜けるとそれは見えてきた。ショーケースに並ぶきらきらと磨きあげられたそれらは指輪なんかではなくて、すべて音色を奏でるためのものだ。響は気になっていた銘柄を指差し、試してもいいですかと尋ねれば神に愛されたその右手で左手で、サックスに命を吹き込むのだった。誰もが聞き惚れてしまう音が、奥の通された部屋から零れてくる。あたたかな拍手とぜひまたいらしてくださいと店員に深々と頭を下げられ、私たちは本来の目的地に向かった。職業柄色んなチケットをもらうことが多く、その中の一枚、東京国際映画祭に行かないかと私は誘ったのだった。様々な国の映画が上映されていて、中には同性愛にも触れる内容のものも含まれていた。語学の勉強にという名目ではあったけれど男の子にこういう映画って失敗だったかなと、ちらりと横目で見やればきれいな瞳がスクリーンの光を映している。きっと彼の繊細な心になにかしら触れることを祈って、私はその物語の結末を見守るのだった。
映画を見終えると、なんだか私たちはうまく言葉を交わせず、ひとまずどこかで休もうかと近くのファーストフード店に入った。
「なんだか今日ずっと、元気ないね」
ああいう内容の後だからというのもあったけれど、会ったときから始終どこか落ち込んでいるような節があった。
ん……と気乗りしない感じで軽く笑顔を見せはするものの、その表情は翳ったままだった。騒がしい店内でアイスティーを飲みながら、変な話してもいいですかと響は切り出した。
「昨夜神峰が夢に出てきて、そこまではよかったのに、起きたら、その……」
夢精してて、と言いづらそうに口にする、唐突な告白に飲んでいたものを吹き出しそうになる。
「でも少し前からおかしいな、変だなって。ときどきそういう、本とかを見たときに、これが神峰だったらって思ったら、すごく腑に落ちたんです」
あのとき問おうとしていた答えを彼は自分で探し出せたのだなと、私は胸がどきどきするのを抑え切れないまま、その一方で甘酸っぱさが染みてむず痒いような気持ちがしていた。
「嬉しいけど、悲しいな」
「どうして?」
「……普通の人とは違って、一生女の人を知らないで生きていくのかなって」
その一言が、その憂いに満ちた表情が、頭にガンと突き刺さって抜けなかった。
「響くん、出よう」
そう言い放つと、急にどうしたんですか、と慌てている彼を尻目に腕を引っ掴んで強引に連れ出し、行き着いた先はホテルだった。それも普通のホテルではなく男子高校生は簡単には入れない場所の、だ。
「試してみようよ」
えっ、と繋いだ手も振り払えないで彼は驚きと困惑とを交互に繰り返す。こんなとき笑顔を見せてしまえば拒否できないことを知っていながら私はそれをした。誰のためでもなく、ましてや彼のためにもならないだろうと検討はついていた。
フロントで受付を済ませてその部屋に足を踏み入れると、内装が案外普通で拍子抜けしたようで、響は緊張で強張っていた肩をふっと落とした。私はそこに間髪いれずに、乱暴にベッドに押し倒してシャツを脱がせた。まっさらな瞳がただ天井を見上げてゆるく瞬きをしている。その美しいものを私は汚しているんだと、みぞおちの辺りに鉛が埋め込まれていくような感覚がしていた。自身の服も取っ払ってしまえば、ベッドの下にぱさりと落ちてそれらは散らばっていく。
外して、と耳元で囁いてぎゅうと抱きつくと彼の首筋が鼻先を掠めた。清潔感のある石鹸のような香りと、男の子の汗の匂いがした。背中に回された指先がそのホックに触れて、私はそれをためらいなく外した。露になった胸を見た彼は苦味を帯びた顔つきで、おそるおそるその膨らみに手を伸ばす。まるで神聖なものに触れるかのような手つきでそれは行われた。私は彫刻にでもなった気持ちでいるのに、感度のある肉体を伴っていたのでわずかにたじろいで吐息を漏らした。
「あたたかい、やわらかい……でも、それだけだ」
悲しそうに言うその表情に変化はなくて、それが何を示すのかは言うまでもなかった。ああ、彼はそうじゃないのだなあと私は思った。
「ごめんね、傷、つけたね」
そう口にしながら、ついにはぼたぼたとみっともなく涙がこぼれていく。
(私は楓だけじゃなく、彼のことまでも)
「どうして泣くの、」
繊細な指先が涙のあとを追う、あまりに優しい感情を乗せて、頬に、目尻に触れた。
「楓との話、してもいいかな」
絶対に内緒にできる? と問えば、素直な瞳のままこくん、と頷いた。

楓と仲良くなり出してしばらく経ったころだろうか、普通の仲のよさとは違う、妙な熱視線を感じることがあった。それでも楓は何も言わなかったし、私も気づいていないふりを続けていた。それは肉体的なところではなく精神面からくることだった。演奏会の後なんかはことさらに際立って感じられた。いつだって彼女はトップの成績を収めていたけれど、それを妬む人間は必ずいたし陰口を叩かれたりもしていた。彼女は至って冷静で、それを咎めたりはしなかった。
「なんで何も言わないの?」
ざらりとした表面の譜をそっと撫でながら私は問いかけた。保存状態の悪いそれらは本来破棄されるべきものなのだけれど、中には貴重なものも混ざっているとかでなにかと理由をつけて捨てたがらない、昔の人の風習だと私は思う。叔父は、音楽を愛する人はその楽譜を、思い出を捨てられないのだ。
「好きに言わせておけばいい」
埃の舞う部屋の片隅で、壁に寄りかかりかながら楓は静かに目を伏せる。ここではたくさんの忘れ去られたものたちが散乱しており、再び誰かの手に取られる日を待ち望んでいるようだった。埃に何度かむせながらも本棚の奥に楽譜をしまって、私はそれらに忘却の印を押していく。
(孤高であることは強さではないわ)
「……そうやっていつまでも逃げ続けるつもり?」
自分の背丈でぎりぎり届く箇所から手を離すと、待ってくれている楓のほうへあえて向き直った。責め立てるような言い種になってしまったけれど、これでいいと私は思った。大きく見開かれた瞳の鋭い眼光は、この世で誰よりも美しく、冷たく映えた。
「私にどうしろっていうのよ!」
ぎゅうと手を握り込めて、腕をわななかせながら楓は叫んだ。そんなに感情的になったら爪が食い込んで大事な手が傷ついてしまうな。楓の怒りよりも彼女の手を気にするなんて私も大概だ。何も言えないで苦笑していると楓はすぐさま落ち着き払って、ごめんと悔しそうに唇を噛み締める。私にその矛先を向けるより、自身に対する感情のほうがずっと強いのだ、彼女の世界の中では。

数日経っても不穏な空気は抜けず、何やら教室で騒ぎ立てている集団があった。楓の次の授業がここであるとわかってやっているのだからたちが悪い。楓も楓で堂々と入ってくればいいのに、面倒だからと汚い言葉を耳にしながら入り口の近くでぼうっとしているのだろう。気にしないだなんて嘘だ、逃げてないというのも嘘だ。
「言いたいことがあるなら本人に言いなさいよ」
暴言に耐えきれず、ついに意見してしまった。今まで散々楓の悪口を聞いていたというのもあって簡単に相手の口車に乗せられていくのがわかる。かっとなったまま口論に発展していき、不利な態勢に持っていかれたあたりでようやくその扉は開かれた。
「全部聞こえてるけど」
私に何か用でも? 刻阪楓は無表情のまま彼女たちを見やった。今まで散々楓を貶めていたというのに、本人を目の前にすると途端に大人しくなっていく。試験の結果がついてこなくて、うまくいかなくて誰かを、何もしないでも完璧と言われ続ける楓を憎まずにいられなかったのだろう。彼女たちは楓を睨み付けるだけで口を開こうとはしないので、そのまま始業のベルが鳴り、入ってきた教授が咳払いをして淀んだ空気を取り払おうとしていた。
その一件以来、彼女たちが楓の話をすることはなかった。詫びもなくまるでなかったことになっているのがおかしくて、私は例の事件を思い返してくすりと笑ってしまった。
帰り道、なんの記念日でもないのにケーキを買って二人並んで歩く。気分がよくて子供のころみたいに鞄を振り回して歩きたかったけど、あいにく私が大人になって手にしたものは形の崩れてしまうものばかりだった。
「何か言うことあるんじゃないの」
「別に」
気を許した人間にはぶっきらぼうにしか言えないところも、彼女らしくて好きだった。ほんと素直じゃないなあ、なんてこぼしながら横断歩道の前に立つ。信号の点滅を見送って、私たちは歩くのをやめた。
目の前で車が通りすぎていく。何台も過ぎ去って、このまま時が止まればいいのになんて柄にもなく思ったりした。
「いいのよ、わかってるから」
雑踏にかき消されていくその言葉は聞こえていても、いなくてもよかった。

いつもならたしなむ程度にしか飲まない楓がその日、珍しく泥酔していた。大々的に開かれたパーティーの何次会だったか、私も酔いが回っていたのでよく覚えていないけれど、誰かが介抱しないといけないことには違いなかった。うずくまる楓を尻目に誰かこの子を連れ帰るような男は、と思ったところでそんな影なんて見当たらないのだった。
楓、起きて、と呼びかけるけれど、当の本人はうなされながらうつらうつらと頭を揺らすばかりだ。そういえば浮わついた話聞いたことないな、この性格だから仕方ないかなんて思うけれど、実際のところ彼女に憧れる異性は少なくなく、バラの咲く中庭で、放課後のテラスで、屋上の階段の薄暗いところで告白されているのを見たことがあった。私なんかよりよっぽどモテるくせにいざ他の誰かと付き合う想像がつかないのは、彼女の人に対するバリアがまだ解かれていないからだろう。本当の彼女を知る人物は少ない。私はそれを手にしている、今もこうして彼女に肩を貸しながら。妙な優越感に浸ってしまえば、私は楓にとってどのくらいの位置にいるかなと考える。
そのときふいに楓は私の名前を呼んだ。あまりに微かな声で、火照るような熱さを持って囁くのだった。なあに、といつものように返せば、身体を引き寄せてそのまま抱きすくめられる。あたたかな体温や呼吸のリズム、心臓の音が重なって、うねりのように波打っている。
「このままじゃ歩けないよ」
ぎゅうと骨が軋みそうなほど強く抱き締められて、私は楓の背中をぽんぽんと宥めるように優しく叩いた。
「……好き」
肩越しに、唐突に放たれた一言に胸がどきりと跳ねた。
「好きよ」
相手を間違えているのかなとよぎらないでもなかったけれど、強烈に色づいた花が咲いたときのように、その言葉は頭の奥にこびりついて離れなかった。バイオレットな色した、告白だった。

その翌日、いつも通りの日常を過ごしていた私たちは帰る間際まで一度もその話題には触れなかった。大変だったんだから、とそのくらい気軽に言ってしまえばよかったのに、なんだか昨日の胸の高鳴りがぶり返しそうで気後れしてしまったのだ。
私はまた埃っぽい部屋でたくさんの物に囲まれていた。ここに運び込まれる物たちは周りから放たれる死の匂いを徐々に染み込ませ、時間をかけてゆっくりとその概念を理解していく。近頃それを間近で感じているのは私一人ではなく、部外者を交えても彼らは文句を言わなかった。いつもの定位置で壁に寄りかかりながら本に目を通していた楓は、私が作業を終えると気配を察してそれをぱたんと閉じた。沈黙だけがそこにあって、静けさが身体に染み渡る、ひやりとした緊張感が喉をすり抜けていく。
「ねえ私、言った?」
その空気を切り裂いたのはやはり彼女の声だった。戸惑いながらも、あらゆるものを吸収してしまう引力を持った強い瞳のまま、楓は確かめようとしていた。
「何を?」
私はなんて返事をしたらいいのかわからなかった。ずるくて卑怯な言い方でしか言葉を返せなかった。本当はわかっていながらまだこのままでいたいなんて、自分勝手に思うのだった。そんな気持ちを隠しきれないでいると、見合わせた楓の表情がじわりと滲んでいく、色んな感情を一緒くたに混ぜたような色して、やわらかく笑うんだ。――お願い言わないで、その言葉を聞いたらもう元に戻れなくなる。
どうしようもなくて祈るように目を伏せると、瞬間、がたんと乱暴に何かを取り出す物音がした。いつの間にかヴァイオリンを構えた楓は、すうと一呼吸置いて神に祈りを捧げる。厳かな緊張感を持って弓が弦に触れて、そのあまりに真剣な顔つきに思わず息を呑んだ。彼女の手から零れていく旋律、静かに始まるこの楽曲は、マーラーの交響曲第5番・第4楽章、別名「愛の楽章」だった。sehr langsan(極めてゆっくりと)と記された楽譜には、愛する恋人への思いが詰まっている。やさしい音に包み込まれてしまえば、ふわりと精神だけが浮いていき肉体を持っているという感覚がなくなっていくようだった。彼女はときに情熱的に、それでいて繊細に身体を揺らしながら全身で音を体現していた。がらくたの部屋から心の奥底が震えるほど美しい音楽が生まれてくる、なんて光景だろう。私のためだけに奏でられた、私にしかわからない、愛の告白。
最後の一小節を弾き終えると、楓は弾く前とは全く違う表情で、鮮やかに笑ってみせるのだった。感化されて沸き上がる心のエネルギーが、感情が溢れて止まらなかった。私は拍手をすることもできずに、ただ彼女を見つめることしかできないでいた。
「返事はいらない」
わかってるから、とそう、あのとき私が言った言葉を楓はそのまま返すのだった。

特別な感情を持っていたのは私も同じだった。ただ、それが彼女の指すものと同等かと問われたらきっとそうではなかった。同じ気持ちではいられないと、わずかなズレを補うようにそれでも私たちはずっと二人でいた。
卒業の日、上品なドレスに身を包んだ私たちは桜の花びらのように舞い踊る。自由だった、なにもかもわかりあえると信じてた、目と目を合わせたなら言葉はいらなかった、私が彼女のすべてになれたのなら、よかった。甘く美しい日々は戻らない。たくさんの花束を両腕に抱えた彼女は、春からこの地を去るという。
振り返って、楓の姿をじっと目に焼き付けた。きれいだな、よく似合ってる。言葉に詰まって、私はそれを押し留めるに終わる。
「最後だね」
分岐した道をそれぞれ歩き出した未来で、それが再び交差することはないだろう。楓とはもう二度と会えないかもしれない。ただひたすらにそのことが悲しい、想いを返しきれなくて苦しい、私の手から離れて世界へ羽ばたいていくことが嬉しい、最後にたったひとつ残る気持ちは、あなたに会えてよかった。どんなふうに言葉にしたら伝わるだろう。視線を投げ掛けて、目を合わせればそれは私が思う以上の感情を乗せて返される。彼女の思考が染みていくのを感じながら、二人分かれ道の真ん中で立ち止まる。
「お別れだ」
楓は生涯のすべてであるその両手で私の頬を優しく包み込んで、最初で最後の儀式を行った。唇が触れ合って、たったそれだけのことなのにはじめて彼女の心に触れたような気持ちがした。いつの間にかこぼれ落ちた花たちはアスファルトの上に散らばって、二人を取り囲んでいた。ゆるやかに風が吹いて、楓の長い髪を揺らす。彼女の声を、音を、その瞳の輝きを、最後に向けられた笑顔を胸に刻んで、私たちは別々の道を歩き出した。

* * *

「彼女と君はよく似てる」
そうやってなにもかも背負おうとするところ、自分の信念を絶対に曲げないところ、好きな人のためなら自分を厭わず犠牲にするところ。私みたいにはならないでねと小さく願う、そのくらいのことしか今の私にはできなかった。
「君も、幸せになって」
艶のある髪を撫でて、親愛の意味を込めて頬にキスを落とした。伏せられた睫を間近で見ると一本一本が美しく生え揃っていて、子供のように清らかなままだった。いつしかそれが熱を帯びて開かれたとき、この子も楓のような眼差しで人を愛するときが来るんだわ。じっと見つめた端正な顔立ちがあのときの口付けを思い出させて、胸の奥でソーダ水のようにしゅわしゅわと泡立ち、はじけていった。

人気もまばらな地元の駅に降りると、東京とは違うあまりに馴染みのある景色に安堵して二人はほっと胸を撫で下ろした。
「姉さんがあなたのこと好きになったの、なんかわかります」
「そう?」
ふいに投げ掛けられた言葉が意外だったものだから、私は少し驚いて首を傾げた。とっくに日も暮れて辺りは真っ暗で、それでもまだ私たちは彼女の待つ家にたどり着けないでいた。
「あ〜あ、もっと響くんを困らせるようなことしておけばよかった」
街灯がぽつりぽつりと灯る、けやき並木のアーチをくぐっていく。軽口を叩けば彼も同じように笑った。
「姉さんに言いつけますよ」
「やだ、私殺されちゃう」
なんだかんだであの人、君のこととっても大事にしてるんだから。
足元で自分の履いている白いパンプスが、ゆらゆらと暗い地面に浮かび上がるのを見ていた。まるで真夜中の海を歩いているみたい。
「……例えばさ、私たちが海で溺れてて、どちらかしか助けられないなら、楓はきっと君を選ぶよ」
「初恋の人が相手でも、ですか?」
それを初恋なんて呼んでしまうの、と私は彼の美しい感性に触れては、あのとき彼女に言えなかった言葉を思い返したりするんだ。
「そういうものだよ」
「僕なら……選べないな」
立ち止まり、思案するように顎に添えられた指先の癖は数年経ってもそのままだろうと思わせるほどよく馴染んで見えた。
「そう思えるひとがさ、もう君の中でいるってことでしょう?」
振り返れば、はじめて彼の存在を打ち明けたあの日のように、嬉しそうに密やかに顔をほころばせるのだった。再び同じ歩幅で並んで歩き始めれば、夜空には大きな月が浮かび上がっていた。暗闇の海の底からきらきらと、光が差し込んでくるようだった。

家に帰ると、お腹をすかせて待っていた楓は玄関先で遅い! と声を張ってこちらを見やった。ありのままの彼女が、今もそこにいた。そうしておかえりと、じわりと目許を朱に染めて私だけに向けられる微笑みでその瞳は物語る。胸に押し寄せる感情を置き去りにしてそのサインを受け取ってしまえば、靴も脱がずに私は思い切り楓を抱きしめた。
道は再び交差し、春の陽射しが穏やかに降り注ぐように、明るく照らされていく。それぞれの新しい未来が、始まろうとしていた。


# future nova