響は知らないんだろうな。 私はもうとっくに大人の女になってしまったということ。私が響以外の男とキスをしたこと。家族でもない、響でもない誰かに、確かな熱を持って体に触れられたこと。 私は日曜になるとピンクのネイルをして、お気に入りの洋服に着替え、いつもと違う髪型で出掛ける。響は部活に出ていて、その時間帯を把握しているからまだ一度もすれ違ったことはない。 響は、私の容姿のほんの僅かな違いに気づくことができた。前髪を切っても、透明なマニキュアを塗って登校したときも、ほんの少し高いヒールの靴を履いたときも。私はそれを上手に隠しながら、時々織り交ぜて、自然と大人に近づこうとしている少女なのだというふうに装ってきた。実際にはその通りだったのかもしれないけれど、周りが思うより私は早熟だった。 小さな頃は何も考える必要がなかったから簡単でよかったなと私は思い返す。子供のままでいられたら、無邪気なままずっと隣で笑っていられたのかな。純粋すぎて、それはまるで春先に溶け出した透明な氷のようで、あのころのことがもうよく思い出せない。 少しの差しかなかった背丈はどんどん開いていって、私の胸はいつの間にか膨らみを帯び、女の子しかつけない下着をつけ、子供だって、産める体になった。少しずつ変わっていく私のこと、響はどう思ったんだろうな。 響からは、いつも清潔な匂いがしていた。それは今の年齢になっても同じで、さっぱりとした顔立ちのせいか男性として嫌悪感を抱かせない珍しいタイプの人だった。色で言えば混じり気のない白をイメージさせる。その汚れのないまっさらな瞳は、今でも私のことを変わらずに大事だと、仕草や雰囲気で伝えてくる。私はそれを受け止め、上手にかわすことができた。 ソファでくったりと寝てしまった響を見ながら、私はとても穏やかな気持ちになるのを感じていた。誰しもが幸せなのだと、世界中の人々から祝福を受けているような気さえする。 片手にグラスを傾けながら――私はその赤く輝く葡萄酒をうっとりと見つめ――このところ根詰めてたみたいだからねえ、と楓さんはその寝顔に近づき、鼻先をちょんと押して笑った。きれいなアーモンドのような楕円を描く瞼に、影を落とすほど長い睫、すっと通る鼻に、淡く色づいた、さくら色した薄い唇。響の場合、美しいのは顔立ちだけではなく、その心までもが美しかった。このきれいな指先が、ずっと私のものだったらいいのにな、と何よりも大切な楽器に触れるその姿を思い浮かべる。音楽を通じてすら、私は守られていた。それどころか一生の傷を負わせるところだったのだ。 神峰さんには、響が私にくれなかったもの、あげちゃうんだなあ。羨ましいな、と私は思う。私が望めばなんだってしてしまうこの男の全てを私は手にしているのに、それでもまだ足りないなんて言うのはあまりに傲慢なことだった。 私は、響が神峰さんにだけ見せた特別な感情が欲しかった、陳腐な言葉で言うならば、永遠が欲しかった。だから私は響にさわらないことにした。例えば、響とキスをしたら。まだ修復できるかもしれない。でも、私が服を脱いで、裸になってそういうことを望んでしまったら、それはいともたやすく壊れるだろう。私は響に私の全てをあげられないのだから、これ以上を望むこと自体が間違っていて、けれどなぜだか、ほんの少しだけ寂しくなってしまう。なにもかも変わらないままでいたかったかと問われれば、私は首を振るというのに。 (もう少しの間、私を自由にしていてね) 「好きだよ、響」 さらさらの前髪を遊ぶように、人差し指でかき分け、私はその額に口づけをひとつ落とす。誰にも見られないように、誰にも悟られないように、それを行った。 # さ よ な ら の 下 書 き |