遠くで誰かが自分の名前を呼んでいる。ひどく耳ざわりのよい、聞きなれたアルトの声だ。
“かみね、神峰…… 僕だ、僕だよ、僕はここにいるよ”
やわらかな音はじわりじわりと体に浸透し、凍った心が溶けていくようだった。それが唯一の親友である刻阪響のものであるとわかったのは、目が覚めて、それもぼろぼろと涙が零れていると気がついたのと同時だった。
つらいとき、そんなふうに抱きしめられたことを思い出して、なぜか胸が締め付けられるように痛んだ。確かあのときは安心して身を預けてしまえたのに、なぜ今更夢にまで見て、苦しいだなんて思うんだろう。
目元を腕で拭い、神峰は頭をぶるっと振るった。そのときはまだ気弱になってたのかな、くらいの気持ちでいた。らしくもないなんて思えるようになったのも、出会ってから今まで刻阪が隣にいてくれたからだ。起き上がり、カーテンを開けば窓からさんさんと太陽の光が差してくる。もうすぐ夏が来ようとしていた。

いつものように一日が始まり、朝練をして、授業があって、部活に出る。日常は繰り返されるのに、なぜだか胸騒ぎが止まらない。目が合うだけで心臓は跳ねるし、気がつけば授業中だって刻阪のことばかり考えていた。そんなふうに自覚したときにはもう遅かった。
練習中、音楽準備室に入ったら刻阪がいて、扉を閉めたら二人だけの空間が出来上がる。じわ、と背中に汗が張り付いていくのを感じて、意識のしすぎだ、今までだってこんなことよくあっただろうと自分を納得させながら譜面に書き込みをしていると、調子はどうだと近づいてきた刻阪が、紙の上に描かれた五線譜をなぞる。
その拍子に指先がかすめて、たったそれだけで頬がかあっと熱くなるのを感じた。過剰に反応してしまったことを恥じて、それが余計に動揺を誘った。
どうかしたか、と刻阪はきょとんとしていて、それはあまりにニュートラルな心で、疑いなんて一切持たない心の目で、俺を見た。
こんなの自分じゃないみたいだと上がった体温を止められず、吸った息がうまく吐けない。
「……俺、刻阪といるとヘンになっちまう、」
 神峰は小さく、誰にも聞こえないくらいの声で告白をした。
「どうしよう、刻阪、オレどうかしちまったかな」
 次第に腕が震え始め、呼吸器官がうまく働かなくなるのがわかって、息継ぎを、呼吸をしようと努めた。
「変って、大丈夫か神峰、どこか痛むのか?」
 おろおろと心配そうに覗き込まれ、そっと掴まれた肩がびくりと強張るのに、それでも神峰は見つめるのをやめなかった。刻阪の青い瞳、海のように深い、きらめきを称えた美しいそれは真実しか映さない鏡のようで、嘘なんて言葉を知らないみたいだった。
「よくわかんねェけど……刻阪のこと考えてると、胸がぎゅうって締め付けられたり、かと思えばどきどきして止まらなくなったり、たまに息ができなくなるくらい苦しくなったりすんだ、けど、なんか切ないみたいな気持ちは、嫌じゃねェ……気がしてて……これってなんなんだ、刻阪にもそういうこと、あるか?」
わけがわからなくなり、涙目になりながら、精一杯思ったことのすべてを言ってしばえば、刻阪は驚いたのか目を大きく見開いたあと、やわらかく笑むのだった。風が吹いてくるみたいだと、神峰は思う。
「……あるよ、僕も神峰といるときだけ、胸がどきどきしたり、時折切なくなるんだ。見ててわからないか?」
言われてみれば、たまにぎゅっとこらえるようなハートの形をしているような気もしてきた。些細な差だったけれど、それは確かに見覚えがあった。
うん、と曖昧に返事を返しながら、神峰は思う。刻阪はいつだって、心を読まれることを恐れない。どうしてそんなふうにいられるんだろう? 俺が逆の立場だったら、どうしたかな。考えるだけで怖い、刻阪を傷つけてしまいそうで、怖い。脅えなくていいんだと、いつしか手を握ってくれたっけ。目を閉じれば瞼の裏でそんな思い出ばかりが蘇る。
“好きだよ、神峰。ずっとずっと、お前のことが、好きだ”
ふいに刻阪の声が聞こえた気がして、はっとした。
「今、何か言ったか?」
ううん、とゆるく首を振る刻阪に、神峰は驚いた。刻阪の声が頭の中をすり抜け、直接届いたからだ。
刻阪は、俺のことを好きだと言った。俺は刻阪のこと、どう思ってるんだろう。

 * * *

あれから数日が過ぎ、距離感を取り戻しつつある中で神峰はその言葉の意味を考え続けていた。
初夏、過ごしやすい季節になり、街をすれ違う子供たちは皆半袖で出歩き始めていた。木々の青さが鮮やかで、さらさらと葉の揺れる音が心地よい。神峰もまたワイシャツをまくり、早くも夏を先取りしていた。隣を歩く人物の、着崩すことのない襟元や、その長袖姿を見るたび神峰は暑くないのかと何度も聞いてしまうけれど、いつも通りだろと刻阪は肩をすくめてみせた。やれやれなんて似合わない言葉を使うようになったり、二人してふざけて小突きあったり、そんなふうに笑い合える日々が続けばいいと思っていた。それでも神峰の中では日に日に沈殿し、ゆっくりと降り積もっていく思いがあった。穏やかで優しい感情だった。なみなみと注がれ、心の中を満たしていくそれ。明確な答えはまだ出ていないけれど、今日ならきっと導き出せると思い、その日の帰り道、刻阪を公園へ誘った。
ベンチに並んで座りいつものように談笑していれば、少し間があいて、何か言いたいことがあるんだろうと、刻阪はしばらく口を閉ざし暮れかけた夕焼けを見つめていた。黙っていても居心地が悪くないのは、お互いを尊重しわかりあえているからだ。鈍いオレンジ色が遠くに広がって、なんだかまぶしくて、ちょっぴり切なくて、目にしみた。
「なあ刻阪、好きってどういうことだと思う?」
突然そんなことを言い出したものだから、刻阪が少しだけ息を呑むのがわかった。
「……難しいな、ありのままの気持ちじゃないか? 神峰はどう思うんだ」
落ち着いたトーンの声色が静かに降りてくる。春のような雰囲気をまとって、こちらに視線を向けた刻阪は微笑むのだった。
自分の気持ちに嘘はつけないんだと神峰は思った。満たされ、溢れそうになる、心の奥底でくすぶっているこの感情に答えを出してやりたかった。
「わからない……でも、どきどきしたり、胸がぎゅうって切なくなったりすることは、恋なんじゃないかって、思うんだ」
口に出してみて初めて自分が何を言っているのかわかった神峰は慌てふためき、最終的に俯いてしまった。前に俺は何て言ったっけ、刻阪のこと考えてるとそんなふうになるって、自分で言ったんじゃなかったか。顔に熱が集まるのを感じて、きっと今頃びっくりするほど真っ赤になっているだろう。
(ぜんぶ夕焼けのせいだ、……違う、ぜんぶ、刻阪のせいだ)
神峰、と名前を呼ばれて、反射的に顔をあげれば、それのなんと嬉しそうなこと。
「僕は神峰のことが好きだよ」
あまりに優しい笑みがそこにあって、まっすぐな気持ちが伝わってくる。あったかで、誰より純粋で、澄んでいる刻阪のこころ。俺にしか見えない、大事な宝物。きらきらしていて、誰にも触れさせたくない。
「神峰は?」
「俺は……」
答えはとうに出ているのに、ためらうのは、受け入れてもらえなかったらどうしようだなんて少しでも迷ったからだ。臆病になり口を閉ざし続けてきた俺を変えてくれたのは、ここにいていいと居場所をくれたのは、お前じゃなきゃだめだと言ってくれたのは、他の誰でもない。
「俺も、刻阪のことが、好きだ」
言い終えて、はあっと震える息を吐いたのを見届けた刻阪は、駆け出した思いをもう止めなかった。やっと言えた、と両手いっぱい広げた腕で、骨が折れそうなほど強く抱きしめられながら言われて、ずっと待っていてくれたんだなとじんわりしてしまう。
抱擁は長い間続いたのだけれど、ふいに刻阪は離れていき、顔を見合わせると一呼吸置いて、それは近づいてくる。合図もないのに、感覚的に理解して、自然と瞼を下ろした。
触れ合わせるだけのキスをすると、幸せだ、と言ってもう一度抱きすくめられる。
まだ胸のどきどきは治らないけれど、その正体が何であるかわかったから不安になることはないし、これから先しばらくは刻阪に胸の中を支配されてしまうのだろうな、と神峰は考えていた。


# 二 人 の そ れ か ら