白い雪の中で咲き乱れた椿の赤に、そっと佇むようにして待っていた叶が忘れられないのだと、そんなようなことを三橋が言っていたのを思い出した。
いつかのフェンス越しにはマウンドピッチャーにいる彼の姿があって、彼の描いていた夢がもう目と鼻の先にある。俺にとっては青く燃える朝顔、もしくはあたたかな橙に沈む夕顔だったのかもしれなかった。何かにすがるようにして咲いた夏の花。あのころ、身体の至るところに散らばっていた痣の色を思い返しながら、きつく閉じていた瞼を開いた。
「おせーよ」
例えばそれは俺にしか見えない幻で、よく聞きなれた声が僅かに低く擦れて、大人びた表情で、笑ってみせるのだった。見間違えようのない、幻だった。お互いすぐに顔に出てしまうのは昔から変わっていなくて、思った途端に考えは見透かされてしまうのだろう。
「待っててくれなんて、誰が言いましたか」
会って早々皮肉な言葉ばかりが口につく。あれから俺はずっとそんな態度を取ってきたし、肝心の「榛名」はいつだって誰かをからかうみたいに笑ったままだった。
本当は、怖いだけなんだ。この関係が明確に変わってしまうことを恐れているだけ。ずいぶんと遠い昔のように感じるけれど、忘れたつもりで引きずっているのは他の誰でもない。
向けられた鋭い視線、冷たいナイフのような、あのぎらりと光る目の意図するものは何だったのだろう。理解することなんてできなかったから、許せなくて、囚われて、もうずっと誰からも逃げたいんだ。
程よく研がれた美しい輪郭を睨みつけて、胸の奥でじくじくと痛む、呼び起こされる感覚に耐え切れなくて踵を返す。
「逃げるのか」
腕を掴まれて、少しでも嬉しいだなんてどうかしている。振り払いたいのに、心の奥底で眠っている期待がそれを邪魔した。この手が触れている限り、これ以上前に進めなくなる。俺の未来は確かに彼の手の中にあったのだ。その指先があのとき触れることを、ずっと願ってた。どうして今なんだ。誰かの人になってしまったあの人に、俺が今更何を。
「俺はあんたのこと、絶対に許せないと思ってた」
みっともなく震えだす声をそのままに、強く手のひらを握り締めれば、整えた爪が皮膚に食い込んで痛みに変わる。そうして自分の足元に巻きついていく蔓をぼんやりと眺めていた。鮮やかな緑の芽吹きの季節は遠い。
気配が近づいてきて、後ろからゆっくりと抱きすくめられていることを理解したとき、もはや身動きは取れなかった。とうとう足も手も塞がれて、じきにこの目も耳も、口さえも。
「変わったよな」
昔はこんなふうに、お前を抱き締めることなんてできなかった。
あまりに穏やかな声色が、身体中を蝕んでいくみたいにじわじわと浸透して、そのうちに心が麻痺して何もわからなくなる。あたたかな炎のような、赤を灯した目で彼は笑っているのだろう。優しく添えられた腕が身体を包んで、緩やかな鼓動が、聞こえる。俺の知っているあのころの「元希さん」ではない、それはもう俺の中にしか存在しないのだ。なのに、榛名元希という人間は確かにそこにいる。
「本当に、」
丁寧に言葉を切って、大事に、何かを伝えようとしているのがわかる。
「お前は、変わってしまった?」
その純粋な問いに、俺は答えられなかった。何も変わってはいないはずなのだ、だけれど俺はもう、あのころの「タカヤ」ではなくなってしまったから。
世界が滲んでぼやけていく。自分を形成していたはずの、俺とあなたがいなくなって初めて、悲しいと思った。
恋焦がれた腕にぽたりと落ちていく、涙に触れた。


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