探してもいないのに、人込みの中からたった一人の人間を見つけ出してしまった。
無意識にただ一点、外せない視点。物事は目まぐるしく動いていく。豪速球のような一瞬のスピードで流れていく、その渦の中、彼は一人きりだった。彼自身が嵐だったかのようだ。
俺は立ち竦んだままで、目線が合うまでのカウントダウンを始めていた。
「変わらねえな」
見覚えのないマフラーをして、懐かしそうに、どこか緩んだ表情をしている彼はすでに俺の知らない世界の住人だった。枯葉を踏んで、白い息、あまりに素直な目線が向けられていることに俺はいつだって苛立つのだ。憎めないから余計に心がざわつく。
あんたは、変わりましたよ。その一言が言えなくて、踏み出すことすらできない。
「あの目、」
そっと顎に手を添えられて、自然と顔が上を向く。あたたかな手の温度。透明な声が降ってくる。
「もうしないの」
するりと輪郭を辿る指先が頭の後ろを撫でて、それから冷えた耳に触れた。元希さんはまっすぐな目をして、やさしく笑う。昔のことなんてもう覚えていないかのように、今を生きてる。
(俺は今のあなたに、どう映ってますか)
上手に笑えたらよかったのに、少しずつ顔が歪んでいくのがわかる。あのころ恋焦がれた指先が離れていくと、音すら聞こえない世界で、寂しげに揺れる瞬きがひとつ、ふたつ。
時間が止まってしまったかのような錯覚がして、俺は静かにそれを見つめていた。一生交わることのない境界線がここにあって、それを踏み越えることはできないのだ。縛られている過去を捨てることは、今を捨ててしまうことと同義だった。あの頃の自分を裏切ることはできないから。
(あんたをずっと好きでいられたらよかった)
伝わることは、なくても。
「そのマフラー、素敵ですね」
去り際に、今までに見せたこともないような笑顔で、俺はさよならと笑った。


# 笑 っ て さ よ な ら