緑の口紅

休み明けのグラウンドは連日の豪雨で、とてもではないけれど部活をできるようなものではなくなっていた。その上監督が他の学校へ行って研修だかなんだかをしているらしく、今日は自主練くらいしかすることなんてないだろう。梅雨の季節はこれだから憂鬱になる、とため息をついて、カバンに物を押し込む。そうやって一人でぶつくさしているときほど他人の声がよく聞こえて、美術の課題終わった?期限明日までだよな、なんて話題が耳に滑り込んでくる。
(やべ、終わってねえ)
提出期限が迫っていることなんてすっかり忘れていた。慌てて同じ部員のやつに居残りをする主旨を伝え、足取りは心持重たいままピカソの絵画のある通路を通り、美術室へと向かう。用具を取って、人のいない隣の空き部屋に移動する。課題はただの風景画なのに下書きに手間取ってしまい人と大分差がついてしまった自分のそれを見やり、ただの校舎と空と木のあやふやな線を、灰色と青と緑とで塗りつぶす。普段ならこんなものさっさと終わらせて部活に行きたいところだが、どうもこの空気中に漂う湿った匂いが俺のやる気を奪っていた。木の濡れたような匂いと、少しの酸っぱさ。筆を一呼吸置いて、何度窓を見やっても外は雨。
ガラガラガラ、と静けさの中で急に音が鳴ったので、一瞬それは曇り空から降る黄色の閃光かと思ったが、違った。
「あれ、タカヤ?」
あまりに聞き覚えのある声で、持っていた筆を落としそうになる。振り向かなくたってわかるが仕方なしにちらりと見やり、どうも、と会釈をする。どうしてこんなとこに来んだよ、と内心舌打ちしながら、緑の絵の具をパレットに足した。
「お前何やってんの?」
いちいち聞いてくるところが嫌だ。
「見ればわかるでしょう」
少し皮肉ぶった言い方をしまったことを後悔した。近づいてくる足音、背中がぞわりとするような気配が背後からひしひしと伝わってくる。そうしてあのひとの爪先が椅子にぶつかり肩に重みを感じて、振り向こうとする直前に、その手がパレットへと伸びる。親指の腹を緑色に押し付けると、まじまじとその付着した緑だか黄緑だかわからない色を人差し指でこすっていた。びっくりして言葉もでなかったので、ようやくなにするんですか、と問おうとすれば、見合わせたその顔が笑っていたので俺は余計驚いて、開きかけた口を閉じることを忘れてしまった。
「なあ、緑、好き?」
意味がわからない。このひとの言動行動すべてが理解できない。
素直に、まあ、好きですけど、と答えるとその緑の指先が顔に近づいてきて、何をされるかわからないという恐ろしさにぎゅっと目を瞑った。つ、と顎を引かれて目を細めると、唇にその指が触れて、口付けられる。
「おそろい」
さっきまでの真剣な顔つきとは打って変わって、まるで花が咲いたような口元で、ふっと、笑った。そのゆるい曲線を描いた口元がわずかに緑色を帯びていた。ああこのひともこんな笑い方ができるんだと思ったら、胸の内側からあたたかなものがこみ上げてきて、と同時に締め付けられるような痛みが伴って、なんだか泣きそうになってしまった。
恥ずかしくて俯いていた顔を上げればドアの閉まる音。残された俺は唇についた緑をあのひとと同じように右手の親指の腹でこすり、眺めていた。下校を知らせるチャイムが鳴ると同時に俺はそれをひと舐めして、学校を出る支度をした。