N(itrogen)

片付けも終わり、暗くなったグラウンドを一通り眺めて、部室のドアノブをゆっくりと回す。するとその辺に座っている人物が見えて、思わず眉を顰めた。
「煙草、吸うんですか」
白い煙があの人の口から出ていき、宙を漂って消えていく。なんて嫌な光景。できれば見たくなかった、と舌打ちして、それを阻止しようと近づいた。

「やめたほうがいいですよ。身体に悪い」
少なくとも、自分には止める権利があると思った。そうやっていちいちあの人を怒らせて、しつこく口出ししてしまうと余計に関係が崩れていくことはとうにわかっていたのに、 それでも。
「てめーには関係ねぇよ」
ああ、この人いま、すげぇ苛立ち感じてんだ、なんて声とか表情ですぐにわかってしまった。なんだよ、わかりたくもねぇよ。なんだか自己嫌悪に陥って、ため息を吐いてからその指先の煙草を奪い取ろうとした。指先が触れて、鬼のように睨みつける目と目が合う。

細い糸が千切れた。

一瞬にして、髪の毛を上へ掴まれた。壁に押し付けられると、頭の上の皮膚が張り裂けそうだった。それよりも、背中にサーっと青ざめてく感覚とか、この冷え切った目とか、手すらも動かせない緊張感だとか。本当はものすごく、怖い。でも絶対そんな顔なんてしてやらない。これは意地だ。勇気をふりしぼってきゅっと拳に力を込める。強く、手のひらに爪が食い込む感触があった。

顔を近づけられて、目線の先なんてどこにもなくて、ただ恐ろしく歪んだ口元が弧を描いている。奥歯を噛みしめたと同時に、顔に煙を吹きかけられた。咽がむせ返りそうになるのを耐えて、唾を飲む。白く辺りに舞った煙は次第に消えていって、すぐにまたあいつの顔が見えるようになった。

整った顔立ちに、深い色をした瞳、唇。こいつの口を塞いでしまいたい。そうしたら楽なのに。何も考えずに近くにあった唇を重ねてしまうと、いっそ殴られたい衝動に駆られる。頭の隅で考えるよりも早く、驚いて見開いた目が視界に入っていた。

「キモチワルイですか」
触れただけのキス、あっさりと手が離れた。そう思ったのも束の間、右の頬に言葉にもならないくらいの激痛が走って、床に叩きつけられる。じんじんと痛む頬、ああ、殴られたんだ、と認識したらなんだか満たされたような気持ちがして、自嘲の笑みを浮かべる。


「死ね」


部室のドアが勢いよく閉まって、大きな音を立てた。吐き捨てられた言葉のことを思って力なく笑うと、落ちていた吸いかけの煙草を投げ捨てた。