雪が降る少し前、赤く染まった耳や鼻水をすする音、白いマフラーを見ると俺はいつも冬の水族館を思い出してしまう。


冬の水族館


それは確か、部活のご褒美か何かでバスの帰り道に寄っただけのなんの変哲もない水族館だったと思う。まぁもともと計画は立てられていたが、詳しいことは内密にしてあっただけらしい。ガラスの扉を開いたら、視界に映る色は、水の色と、作られた深い青の色。ほかの色なんて見当たらなくて、心細いような、この青の雰囲気がずっと支配してしまうような感覚だった。少々肌寒い中で、へんな生き物がたくさんいて、みんなの声とこころが騒いでいる。最初に見たのはイルカだった。間近で見ると意外に大きいことに驚く。わぁ、と歓声が波のように広がっていく。

(・・・人間が、ちっぽけなのか)

それからもまばらになった人の列、ほころんだ顔だとか、珍しそうな顔、そういったものを見ながら、俺は可哀相なこの魚たちのことを思った。



大分館内を見終えたころ、俺は歩き疲れて地味な魚たちが泳ぐ水槽付近のベンチに座って休んでいた。他に人はほとんど見当たらない。奥のほうには、クラゲがいる・・・。
今頃はイルカショーでもやってる時間か、なんて途方に暮れてみた。その10分後くらいに聞きなれた声がして、振り向くとそこにはモトキさんがいた。

「どした、疲れたか?」
隣にゆったりと腰掛けると、していた白いマフラーを外して、ふぅ、とため息を吐いていた。ベンチが軋んだ音を立てて、心臓がざわめいていた。
「・・・まぁ」
どうでもいいような返事をしながら、なんだか違和感を感じて肩がこわばっている。気のせいじゃない。
「はは、」
こちらを垣間見て、そうやって笑ったふりをする。耳につくその乾いた笑いが、なにより嫌いだ。特に話すこともないので、ぼさっとしながら水槽を眺める。別段面白いというわけでもない。試しに、隣をちらっと見てみる。ひたむきに、ただ一線を見据える目や、少し半開きのふっくらとした唇、水の光が反射した蒼白い頬をわけもなく見ていた。目線の先に何が映ってるかなんて想像もつかなくて、自分の目に映るものと同じだとも思えなかった。

(さかな、みたいだな)

魚のように泳ぎ続けて、ひたすら呼吸だけを求めながら、行き急ぐ。壁に頭でもぶつけてリセットしないと、明るい闇の中で溺れてしまうから。それまでの間は、ただひとつのことだけを考えて、この手が触れるよりも早く、一直線に突き進む。まっすぐ、まっすぐに。子供みたいに輝いた、その愛しい目で。


せまい箱に入れられた魚。青の宝石だけが広がっている、澄んだ、小さな世界に。息苦しくはないのだろうか。騙されたまま、閉じ込められたとも知らずに?冷たい海水の中で、螺旋階段を上るように、それでも魚は回り続ける。

もしあの人が魚でこの檻の中に入っていたとするなら、このぐるぐると回り続ける矛盾に気づくだろうか。



思うこと、考えることはあの人のことばかりで、ただただ囚われていることに苛立った。捨ててしまえ、こんな気持ちなんて。残像ばかり追い求めることしかできないのなら、いっそ忘れてしまえばいい。・・・できるはずがないのに。そして、目の前に居る人物が、この縋るような依存する気持ちを、知るはずも、ない。


透き通った、澄んだ瞳。

それを見たときの、この感情を言葉で表せたら、どんなに楽なんだろう。
胸が詰まる、とか、息もすえないほどの、とか。そんな陳腐な言葉ではなくて、もっと、泣き出しそうなくらい。

失ってばかりだな。いつも。何も伝えることができないまま、この人のことだけを、思って。同時に、同じことを繰り返してばかり。

(馬鹿な魚は、俺のことじゃないか)


「タカヤ、」
振り返って、見えた眼球があまりに深い青を放っていて、いつの間にか目に焼きついていた。立ち上がると、手がやさしい雨のように降ってきた。
「俺、そろそろ行くな」
花が枯れたような乾いた笑いじゃない。子供の頭を撫でるみたいに、褒めたときの仕草をして、やわらかく微笑んだ。

向けられた背中の曲線を目で辿ると、影が除々に小さくなっていくのを感じた。いつだって勝手なこの人を、見えなくなるまでずっと見つめていた。

もう、あたたかな感触は残ってない。


それは強烈な痛みだけを残して、俺の目の前から消えていってしまった。






いつだか冬の水族館に行ったことを思い出して、どこか深く眠った、触れてはいけなかったものに触れた気がした。今はもういないあの人に、少しの青と、悲しみと安らぎを込めて。




(・・・あなたは俺の、すべてだった。)









相川さんへ捧ぎます。勝手に。