やさしい指先 血管の浮き出た手首が見えて、その透き通るような青さに思わず目を惹かれた。そのまま手を捕まれて壁に押しやられる。ひんやりと冷たい壁が、なぜだかリノリウムの床を思い出させた。 「どうして、俺なんですか」 二人だけの暗黙のルールを、俺は破ってしまった。軽はずみな気持ちで、何のためらいもないように見せて、わざと呟いた。きっと傷つくのは俺じゃない。そう確信していた。 ・・・嘘でもいい。その訳を、知りたかった。自分がどれだけあざといのかを見抜かれていたとしても。 思慮深い俺はとても狡かっただろう。滑稽なものにすら思えた。 この人はいつだって本気で俺を殴った例がない。優しさと受け取ることもできたが、それは単なる自己防衛なだけだ。そう気づいたのは割と最近のことだった。寒気がする。目の前で笑う人物にも、鈍すぎる自分にも。 この人は普段見せないような冷静な瞳で、凍りついた香りをさせて、俺を抱く。他人に見えるのはこういう時だ。口元は笑みを浮かべているのに、目だけは酷く冷たい色を放っている。一度目が合ったら、二度と逸らせなくさせるような、そんな目だ。 「依存してんの、おまえじゃないの」 彷彿とした感情が、むせ返るくらいに湧き上がってくる。嫌悪感ばかりが後を引いていて、どうにももどかしい。反応を試されているのか、それすらもわからなかった。 自分をあざ笑うかのような顔付きをして、口元が歪んでいく。その気色を見据えながら俺は拒んだ。 「・・・違う、」 さっきまでの虚勢は呆気なく消え去り、途端に声が震えだした。認めてしまえばいいじゃないか。逃げれば逃げるほど振り解けなくなる、それでも回避を望んでしまった。 「だったら、証明してみせろよ」 近づいてくる影に、俺は顔を横に振った。手さえ振り解いた。だからといってこの人の言う証明には成り得ないだろう。背中に冷や汗が這うような感触があった。吐き出した息が、膨らんでいく肺が、おかしくて堪らない。俺は今、呼吸をしているのか? 「否定、すればいい、」 絞り出した声に勢いはなく、空気中に分散してしまいそうな音だった。今、俺は上手に笑えているだろうか。引きつっている、笑えてもいない、どれだ。答えはどこにある。 俺なんかに拘る必要は、全くもってないはずだ。違うと言った俺を拒むか蔑むか、無理やり暴力を振るえばそれでよかった。言葉をちりばめて、曖昧にしてしまえばまた元に戻れる。わかっていて俺は何もしない。できやしないんだ、そんなこと。 滑らかな曲線を描いた咽仏に思い切り噛み付くと、くぐもったような振動が直に伝わる。でもどこか迷っている、だから加減してしまった。絶対に手が伸びてくると覚悟していたのに、一向にその気配はない。唇を離して、赤く染み付いた歯形を舌でなぞるように舐めとると柔らかな皮膚が頭を撫でて、そうされた瞬間、立ち竦むよりもずっと早く意識が遠のいた。 左手が頬に合わさり、重ねるだけの口付けが一度、静かな儀式みたいにひっそりと行われた。 「なんで、」 そう問われると、不意に涙がこぼれた。いや、すでに、だったかも知れない。 では、この問いは何に対する問いなのだろう。泣いているという意識もないのに、頬には温かな水滴が零れ落ちるばかりだった。胸の内に広がる感情の波が、ゆっくりと緩和していく。 今しがた触れたばかりの、あたたかな絶対温度だけが唇を支配している。 何一つ言葉を紡ぐこともできない俺は、ただやさしい指先が、瞼に、頬に触れていくのを感じていた。 |