夕闇に潜む足音


窓から差しこんでくる夕日が無防備な寝顔を照らしている、放課後の部室。ベンチの上に無造作に置かれた骨の角ばった左手。その人差し指、第二関節に何のためらいもなく唇を落とすと、太陽みたいに温かな手のぬくもりが伝わってくる。この手が俺に、脅従を与えるのかと思うと不思議な気持になった。
顔を盗み見ると、穏やかな様子で瞼は閉じられている。こんな行為をしてしまったことに意味なんかなくて、もし本人に知れたらどうしようかと一瞬頭の中を過ぎったが、要はばれてなければ問題ないわけだから、と自己完結に終わった。荷物を確認し、立ち上がって帰ろうとしたときだった。西日が空気を橙色に包みこんで、視界が夕闇に染まる中、不意に、自分の名前を呼ばれたような気がした。いつもより、幾分か澄んだ、落ちつきのある声だった。

「・・・たかや?」

弱弱しくさまよった音が壁にはね返って、遠く、近く、響く。後ろを振り向くことさえ忘れて、ただ立ち尽くす。頭の中がまっしろだ。瞬間的に身体が熱くなったかと思うと、すでに青ざめていた。もう一度さっきと同じ声が聞こえて、反射的にカバンを引ったくり、逃げ出した。そのとき、左手が自分の手首にわずかに触れて、宙をつかんだ。

蹴破るように部室を出ると、追いかけてくる足音が聞こえて、ますます俺は走らざるを得なくなった。
「おい、ちょっと待て!」
闇が濃くなり、もうすぐ日が暮れるというのに、それでも足音は止まない。校舎に入るとさすがに諦めただろうと確信したのに、距離が縮まるばかりだった。息を切らしながら、日があまり当たらないB棟へ向かい、角を曲がった次の教室に身を潜めた。辺りは暗く、うっすらと夕日が窓から伸びているだけだった。何かの置物と掃除ロッカーとの間にしゃがみこみ、闇に紛れる。

少し離れたところから、耳鳴りのように自分の名前が聞こえる。
そして、ドアの開く音がして、俺は息を殺した。

「出てこいよ」

なるべく目を合わせないように、ぎゅっと目をつぶって恐怖に耐える。その掠れた声を聞いただけで空気がひどく冷たく感じてしまうのは何故だろう。心臓の音がやけにリアルに響いて、唾を飲み込むことすらできない。どうか見つかりませんように、と何度も願いながら、近づいてくる足音に耳をすませる。机がガタンと大きな音を立てて、その音に驚いたのか肩が痙攣したように震えて、かすかな音が鳴った。

(    し  ま っ  た  )


目を開けると、真っ暗な闇が見えて、それから、自分の名前を呼ぶ声ひとつ。
「隆也、」

暗闇にそっと浮かぶ、弛んだ口許、声、瞼の裏に焼きついた、夕暮れ。




「  見  ぃ  つ  け  た  」