瞼の裏側 携帯の着信があって、とりあえずメールを見た。そこまでは良かったはずなのだ。それがどうして、こんな状況に至るのか、俺には全くもって理解できない。 電車の心地のいい振動に揺られながら、どこに向かうのかもわからず途方にくれた俺はとうとう考えることを放棄してしまった。隣でうとうと眠りだした人を見たら、もうぜんぶがどうでもよく思えて、今まで考えた分の疲れがどっと出てきた。ため息を小さく吐くと、肩の重みを感じて、垣間見ると無防備な寝顔が余計に俺を疲れさせた。窓からやわらかな日差しが差してきて、いっそう眠気を誘うと、隣につられて自分も目を閉じる。 「タカヤ、起きろ」 項垂れたまま眠っていたせいか、首が重くて痛い。起きろとうるさい声が聞こえるので否応なく目を開いた。 (・・・海の匂い) すっと溶け込むような匂いに、かすかに胸をどきりとさせて、まだ覚めない目をこする。電車のドアを出るとぼやけた視界に鈍い色をした海と、茶色っぽい砂浜が、映った。 「なんかさ、ほら、むしょーに海に行きたくなるときってねぇ?」 「ないです」 俺の気の利かない返事にすこし機嫌を損ねたかと思ったが、鼻歌まで歌いだしたこの人を止める権利なんてどこにもなかった。陽の光がまぶしくて、でも、まだ風は冷たく、とてもじゃないけど海に行きたくなるような季節ではない。 夏にはじりじりと焼け焦げた匂いのしそうなコンクリートも今ではさみしげな表情をさせて、そのわきにひっそりと隠れ、しなびた色をしている草がまた、それを強く印象付けた。木の古びた階段を下りると、さらさらと乾いた砂が運動靴に紛れ込んできて気持ちが悪い。そのままなんとなく歩いて、ところどころ落ちているゴミに目をやりながら、すぐ真下に落ちていたしま模様の白い石を見つけたときを境に、俺はその場にしゃがみこんでそれをつまみ上げた。何の変哲もない石のようにも見えて、珍しい石にも見える。馬鹿馬鹿しい、と元の位置に戻すと、前方を歩いていたモトキさんとやらはどこかに消えていた。こんな風に、休日の暇なときに俺なんかを構って遊ぶのは面白いことなのか、海なんかにきて一体どうするのか、いつも、聞きたいことは結局言えず仕舞いで、目の前を揺れ動く波のように消えていく。 「なにやってんだよ」 遠くから声がして、あわてて声がした方向を振り向くと、モトキさんは海に足を浸らせていた。 (このひといまなんがつだとおもってるんだろう) (ていうかあんたこそ何やってんだよ) 「あー、つっめてぇ」 わざとらしく呟かれた声のあとに、お前も入れよ、なんてありえない言葉が俺の頭の中を飛び交う。いやですと拒否したところで無理矢理入らされるのなら、今のうちに靴を脱いでおいたほうが賢明だ。裸足になって芝生のようにやわらかな砂の感触を踏みしめ、恐る恐る海水に足のつま先を触れさせる。瞬間、白いあぶくを乗せた波が俺の足を視界から消してしまって、水の中に浸った足が、凍るように冷たい。足が砂に埋もれそうで、埋もれない、あの何とも言えない感触、じゃぶじゃぶと波に溺れてく感じを確かめるように、先へ進んでいく背中を見つめながら、砂の海を歩いた。 (このまままっすぐすすんだら、人はいつか死ぬのかな) 前へ進むたびに、足から膝、お腹、手、胸・・・と順を追って、青く淀んだ色に染まってって、どんどん息苦しくなって、自分が見えなくなって、最後には頭まですっぽりなくなって、海の砂の中に沈んでいく。そんな想像をした。他愛のないことをついつい考えては消しを繰り返す。くだらない。膝までまくりあげたズボンのすそが濡れるのも気にしないで、思いの他、海の深いほうへと進んでしまう背中を見たらなんだか焦燥感を覚えて、一人取り残されるような錯覚がして、気がついたら口から言葉が発されていた。 「待っ・・、」 理由もなく焦ってしまった、なのにその言葉の続きを噤んでしまったのは多分、すぐにモトキさんが振り向いたせいだと思う。 「どした、」 何かを勘ぐってしまったような、冷静な顔立ちだった。悟られた、と腕が痙攣を起こしたようにびくりと反応したが、それはすぐに治まった。 「なんでも、ないです」 首を横に振って、否定を示す。それから、ゆっくりと息を吐く。 つかもうとしてつかみそこねて、いつもそうだ、泡のように、波のようにあっさりと身を引くひとだと思う。つかめるはずなのだ、それは確かにそこにあって、手を伸ばせば、触れようと思えば、できるはずなのに、どうしてか届かない。その寸前で、手を引っ込めてしまう。触れてはいけないという意識があるのかも知れない。 日が暮れかけて、地平線の向こうに沈む深い青と、それに混ざる夕陽の色を眺めていた。 「隆也、」 あたたかな橙がまぶしくて、まぶしくて、まぶたの裏側に、呼ばれた声のあたたかさが滲んだ。 |