かなあみの向うに彼は飛ぶ

階段を蹴り上げて屋上につくと、床に這っている灰色の壁が冷たそうに俺を見つめた。ここの空を見ると心の内側がすっと解放されたような気分になる。とても気持ちがいい。気がついたら深呼吸をしていた。四角のマスの、縦のラインに沿って歩く。ひび割れたコンクリートはいつだって俺の味方だった。
(空の色は映らないけど、それでも俺はお前が好きだよ)
手を大きく広げて、まっすぐ、どこまでだっていけると子供のころは信じていたのに。

何にも言わなくたって準サンは俺のことなら何だってわかってるんだと、ただ漠然と、そんな意識があった。それは甘えなのかも知れないと感付きながらも、準サンが甘やかす限りどろどろになるまで俺は溶けていくのだろう。傍に近寄ると、吹いた風がつやのあるやわらかな黒髪を揺らして、いつだってその髪に触れたいと思っていたと、密かに、そして静かにその言葉を飲み込んだ。
「空が動いているのか、俺たちが動いているのか、わからないんだ」
そう準サンがぽつりと言葉を落とした。そのまま真下のグラウンドにふっと消えていきそうな声だった。俺には意味がよくわからなかったけど、こんなふうにただぼんやりしている準サンを見るのは初めてだったから、なんだか口にしてはいけない気がして、俺はそれを紡ぎかけて噤んでしまった。空の雲はぐんぐん青を追い越していく。あぶなげに映る瞳の色は俺をぐしゃぐしゃにさせるだけだと知っていながらついついその色に魅入ってしまう。

(かなあみの向う、準サンには何が見えるの)

まるで空へ羽ばたこうとしているのをフェンスが遮っているかのようだった。飛べない鳥、名付けるならそれがいい。準サン、と願う言葉は簡単に俺の心をすり抜けて、これからくる春に滲んでく。金網に身体を押しつけて遠い青に手を伸ばしながら、飛ぶことの意味をぶっきらぼうに思った。