ファド

いつもより湿っている空気とどんより曇った空。こういう日に限って寝坊をしたりして、天気のことなんか考えずに家を飛び出る。ふと、昨日見た天気予報を思い出しても傘を取りに行く時間はない。よくあるパターンだな、とため息を吐いて、また走り出したのを覚えている。


午後の部活も終えて、他の生徒が帰るころには湿った空気がより濃いものになっていた。上を見上げると雨雲が真上にきていて、部活に支障を来さなくてよかったけれどなんてタイミングが悪いのだろうと寝坊した自分を恨んだ。思ったとおり、ポツポツとちいさな空の破片が落ちてくると、俺は慌てて部室へ駆け込んだ。その破片は数秒と経たないうちに数を増やし、あっという間に建物や人をもずぶ濡れにした。

ドアを開けて、この時間帯じゃ部室に人なんて残っていないだろうと踏んだけれど意外にも一人だけ例外がいたようだ。
「傘、ないんですか」
腰をおろして、一息つくとどうしてこういう時に限っているのだろうとそっけない態度を取った。興味なんてなくても、何か話さなければいけないという義務感が追い立てる。ベンチに座っていたこの人は何か考え込んでいた様子だったが、顎に添えていた手を離して、目をまっすぐに向けてくる。
「お前、女とキスしたこと、ある?」
「・・なんですかいきなり」
スポーツバックの中に入っていたタオルを取り出し、頭から拭いていくと妙な沈黙が俺を襲った。会話が噛み合っていない。
「・・・・・・ないですけど」
それを見て、にやりと笑ったこの顔を一度殴ってみたい。
「ふうん」
案外そっけない言葉で返ってきたと見せかける。それはわかっているんだ。
問題は次にある。

「じゃあ、してみる?」

ほら、すぐそうやって人を惑わせて楽しもうとしている。
その手には乗らない。
「その辺の女よか上手いぜ?」
雨音が、静かに鳴り響いていた。耳からじわじわと染み込んでいく感じ。

真剣になった瞳の先、薄暗い部屋の中、手がそっと頬に触れる。その瞳の色に見惚れてしまうっていうのは、こういうことを言うのだろうか。自分で自覚してるだけましだよなぁ、なんて思いつつも目線を逸らせない。
この人は自分をからかっているだけなのだ、と意地を張ったけれどもしかしたら、いやもしかしなくても。駄目だ、読めない。近づいてきた顔の輪郭がやわらかな曲線を描いている。

嘘、だ。


触れただけの唇、伏せられた睫、髪のいい香りがする。言葉にもならない。耳の奥が痛んだ。もう一度目を合わせて、また口付けられる。胸が苦しい。
この人には人を抵抗できなくさせる不思議な力があると思った。強引なのに、突き飛ばす時間すら与えるのに、それができない。ぬめりとした感触のざらついた舌がねじ込んで、拙い動きに乗せられる。駄目だ、このままじゃ相手の思うツボだ。それでも、高まっていくこの気持ちを抑えることはできない。無我夢中で貪って、気がつくとその存在に縋っていた。

乱暴に、噛み付くようなキスをしながら服に手を掛けられて、ゆっくりとボタンが外されていく。顔が離れて、首筋から肩へそして痣へとキスを落とす薄い唇。甘く痺れた指先がその痕を辿っていく。
「っ、・・ぁ、」
涙で霞んだ目にはもう一つのことしか見えていないだろう。赤い舌が這っていくその姿が酷く扇情的で、堪らない。思わず息を呑んだ。与えられる刺激に、ただ耐えるか呻くかのどちらかだった。

感情が止まらなくなる前に、もうこれ以上触れないで欲しかった。同時に、それと反対のことを、懇願していた。




「ごめんな」
生温かい傷に浸りながら、優しく笑う。哀しみにも似た、アイリス。
唇に乗せて、囁くその言葉を。その透き通った瞳の色を。
(忘れることは、できないだろう)

ああ、もう少しだけ。もう少しだけ、その手で、触れていて。