「俺は、あんたの所有物じゃない」
やっぱり思われてないんだな、と思った。響いた声が思ったよりもずっと皮肉な言い方で、自分でも驚いてしまった。やさしく触れたはずの指先が、一瞬で凍って、この頬を掠めた。スロウ。冷たい冷たい、冴えた目だ。
(そしたら左手が飛んできて、床に叩きつけられて、あの人の傷ついたような、嘲った顔を見たとき、俺は   )
だがしかし、予想に反して左手が下ろされることはなかった。

「てめーがそう思ってるだけだろ」
それは一方的な押し付けだ。ただの偏見に過ぎない。なにもかも自分が基準で、自分さえよければそれでいい。誰だってそうだとは思うけど、それとは度合いが違う。
「もうこれ以上、触れたりしないで下さい」
肩に重みが掛かった。俺は、なんだかんだ言って嬉しいのかも知れない。この人に触れられることが、構ってもらえることが、それだけで。

背中にぞわりとした感触があった。頭身の毛も太るとはこのことを言うのか。重なりそうになった顔をなんとか背けて、必死に振り払う。人の領域にずかずか踏み込んできて、ぐちゃぐちゃに荒らすだけ荒らしていく。自分だってそうされることをたまらなく嫌うくせに。


「触れるな」


緊張感を持った、ピンと張った糸があと少しで切れてしまいそうだった。お互いに距離が取れてなくて、不安定に揺れてるからわかりあえない。わかりあおうともしない。わかってしまったとき、「違う」と知るのが怖いから。

繋がれたままでいたいなんて、どれだけわがままで理不尽な願いなんだ。

睨みつけた右目が、抉られるように痛い。瞬間、電気が身体中を駆け巡って、気が付けば死体みたいに床に這いつくばっていた。
(ああ、またか)
このまま死んでしまえれば、なんてとりとめもない仮想にばかり囚われる。所詮、人間なんてその程度だ、なんて思いながら、軽く笑う。HOPE(軽め)。
「口先だけで非難して、かっとなったら暴力で逃げて、そうしたらきっと俺もあんたも満足なんだ。なぁ、そうだろ。」
俺は今誰を見つめている、目の前が澱んでいて、わからない。
ふと、深い海の底で泳ぐ青い魚を思い出した。

「―――そうだって、言えよ」


時が止まったかのようだった。TVなんかの画面よりも、リアルに、空白を感じる。

「違う、だろ・・何言ってんだよ、お前。オレは、ずっとお前が」
どうしてだ、この人は何かに怯えてる。声が、震えてるのがわかる。そんな切り口じゃ、傷なんか付くわけない。鋭いナイフを求めているんだ、突き刺すような、痛みを。もっと。

「・・・知ってるよ、その理由も、答えも、ぜんぶ。もうこりごりだ。疲れたんだよ」
心底呆れたように呟く。違う、それはもっと狂暴な気持ち。全身が拒否反応を起こしている。全てに対する嫌悪だ。なんて、いけすかない。歪んだ感情が、ねじれて、咽元に絡みつく。
「軽蔑して、もっと蔑んでくれよ、」
壊してしまいたいと繰り返すように、乾いた声で挑発する。口唇は、奇麗な弧を描いていた。




あの人は俺の望んだ通り、その左手で、傷跡をくれた。
「立てよ」
吐きそうだ、口の中から血の味がする。息を切らしながら、腹を抱えてうずくまる。もう無理だ、立てるはずがない。乱暴に、何かをひたすらに埋めていくみたいに蹴られる。欲望にも似た、狂気。自分の罪をなすりつけてしまったのだ、と懺悔のような祈りを捧げても、誰も救われるはずがない。
「立てっつってんだろ」
背筋が凍って動けなくなるほどの、この目線がすきなんだ。どうしようもなく。呆気に取られて何もできずにいると、顔が近づいて、あのときの香りがした。唇が当たって、貪るようなキスをする。

憎しみが、穏やかな恐怖が、愛しさが、溢れ出す。



望みの彼方、ほしかったものは、・・・何だ。