あの人に腕を掴まれると背筋がぞくぞくする。
ほんの僅かに期待を、しているだなんて認めたくない。振り返ったらそこで負けだ、だから俺は右の拳を痛くなるまで握りつぶしてぎゅっと目を瞑って振り払おうとする、腕が動かない。奥歯を噛み締めたらそれはまるで耐える姿勢でしかなくて、違う俺は抵抗したいできるならいっそ逃げてしまいたい今すぐにでもこの場から立ち去りたいなのに触れた体温が熱い。嬉しいのも悔しいのも怒ってるのも悲しいのも全部混じって涙腺にくる。
「これ以上惑わせるな」
本当に今更だ。なんで今になってこんなに泣きそうにならなきゃならない。
惑うって?、そう平気で聞いてくる辺りですでに俺は話をしたくない。
(あの時俺は生きていて、幻想を見ていただけ。あいつの、夢を見ていただけ。)
力を込めていた指の先までを解放してあげれば、すべてが崩れ落ちていく。俯いて、ぼた、と涙とか汗とかぐちゃぐちゃに溶けてしまった俺がコンクリートに張り付いてみじめだ。
たかや、と優しく名前を呼ばれた気がしたけど俺は顔を上げられなかった。

引っ張られる腕とのろのろと動く足がどうやって辿りついたのだろう。
いつの間にかおじゃましますも言えずに人の家に上がりこんでしまっていて、どうしたらいいのかわからないままベッドを背凭れにしてうずくまる。掴まれていた腕の、皮膚感覚が戻らない。痣にでもなっていれば、と考えて一度打ち消す、二度目になればきっと消えない傷になる。
自嘲するみたいに笑ってでもそれでも榛名元希という人間が俺に、俺だけに向けたことなら本当はなんだって嬉しいんじゃないのか、そう思ってしまえる自分が嫌になる。

階段の木がみしみし軋んで、誰かがこの部屋に戻ってくるのがわかる。扉が開いて俺は思わず目を逸らす、見たくないわけじゃないのに、光の差すその先を見据えてもいいはずなのに、俺はまだ背徳感の中で埋もれている。
落ち着いた?と余裕のある声色が耳の鼓膜を震わせて、ほんの少しだけ肩の荷を降ろした。三橋じゃあないけど、殴られたっておかしくはない。
影が伸びて、近づいてくる、頬に熱い手のひら。きっとそのうちに輪郭からぼやけて消えてなくなって、俺が俺だけのものじゃなくなる、いなくなる。こつんと額がぶつかって、あ、目が合った、そう思っているうちに口元にやわらかな感触が重なって、それを受け入れているうちに逃げられなくなってとうとう床に押し倒される。乱暴な手つきではなかった、その事実がもうあのころの自分たちではないことを思わせて胸が痛くなる。

肌を触れ合わせて、わかることってある、ぬるい温度を確かめ合いながら、小さく呟いたのが聞こえた。
「俺はそれをお前に、しなかったな。」
指先を口元に持っていかれて、きれいに閉じられた瞼が弧を描く。
その次の、指の先から零れる言葉を聞いたら俺はきっと立ち直れない。だから言わないで、消えないで、俺の、俺だけの。

(元希さん、)



# ご め ん な