青さと痛みを理解した。あのころ傷ついて、勝手に失望して、与えられた衝撃をいつまでも引きずって、忘れなくしたのは自分だった。呪いをかけられたんじゃない。自分がそう望んだことだった。
熟れすぎた果実をぐしゃぐしゃに潰してジャムにするみたいに煮詰めたんだ。瓶に入れてつよく蓋を閉めて、もう誰にも傷つけられないように。そうしてどろどろに溶けた赤い色のそれは、あるとき三橋によって蓋が開けられ、高校を卒業するころにはすっかり空になってしまった。
世の中は、正しいことがすべてまかり通るようにはできていないし、他人の真実がすべて正しいとも限らない。それでも、わかろうとして、わかることを諦めずにいれば叶うものもあるのだと、そう教えられた気がする。
土埃の舞うマウンドでミットを構えることも、蜃気楼の先に誰かを思い浮かべることも、もうない。二度とあの思春期の自分に立ち返ることはないのだ。

ビジネスホテルのフロントでカードキーを受け取り、鈍い金のドアノブに手をかけた。備え付けのスリッパに履き替えてジャケットを脱ぐ。ネクタイを緩めながら椅子に腰掛けると、ふいに疲労のにじむ自分の顔が鏡に映った。出張で地方のホテルに泊まることにも慣れた。すっかり大人になったなと思う。
内面はさして変わらないというのに、自分の力で稼ぎ、一人暮らしをして、ただ生きるために働いて、それだけになっていくことが今は少しだけ虚しい。

テレビをつけると、オーケストラの映像が流れ出す。聞こえてきたのはワーグナーのローエングリン。よく知らない曲だ。黒い服を着た人たちの密集、似たような動きの群れ。管弦楽の重なり合う音色はけたたましく甲高い音が耳にさわる。指揮者が曲線を描きながら指示を出す、まるで奏者を支配しているみたいだ。狂気に近いそれをどこか知り得ているような気がして、振り払いたくてチャンネルを変える。これといって見たいものもないというのに、何かないかとしばらく探してしまう。ふいに映ったローカルニュースには結婚という見出しがあり、続くテロップには見知った名前が表示されていた。──榛名元希選手、◯◯アナと結婚。
突然の報道に驚いたけれど、この年齢にもなれば不思議でもなんでもないなと思う。篠岡だって結婚したしな、とテレビを再び見やれば、相手が女子アナだというだけで、コメンテーターは好き勝手なことをあれこれ語り出す。
野球を人生にしなかった自分とは違い、彼は自らの手で未来を掴んで、這い上がっていった。プライベートなことだけれど通過点に結婚があって、ただそれだけのことなのだ。その人生が決して順風満帆だったとは思わない。詳しくは知らないけれど風の噂で不調な時期もあったと聞く。学業と同時に、野球に関するあらゆることと距離を置いたので詳しいことはわからない。野球が嫌いになったわけではなく至って晴れやかな気持ちだったが、接点を持ったままでいると未練がましくなりそうなのも本当だった。
率先して聞いたわけではないけれど、今も携帯には彼の連絡先が入っている。最後に連絡をもらったのはいつだったか。携帯の画面に這わせた指がするすると、連絡先をロールする。
隆也、といつものやわらかな声で、空に抜けるほどの大きな声で、苛立ちを抑えきれない様子で、ただ話を聞いてほしいだけの理由で、こんなにもいろんな感情で名前を呼ぶ人は、彼が最初で最後だった。
女性を知っても、野球に夢中だったあのころ以上に誰かを好きにはなれなくて、それとこれとは違うとわかっていながら、なんとなく気持ちを持て余している。
「あっ」
気がつけば、間違って電話の発信ボタンを押してしまっていた。そうこうしている間にコールが鳴っている。すぐに切ったが着信の履歴は残ってしまうだろう。結婚報道の直後だ、たくさんの人から連絡があるだろうし、と考えている最中、机に置いた携帯のバイブレーションが振動し始める。マジかよ、と画面を見るとできれば見たくない名前がそこにある。なんとかやり過ごしたい思いでスルーを決め込み、祈るように目を閉じた。
着信が過ぎ去ったと思えばすぐに、メッセージが届く。「出ろよ、祝え」とだけ乱暴に一言。彼もまた何にも変わらないことに安堵して、すべてを許せたわけではないのに、なんだか泣きそうになる。
シャワーを浴びたらおめでとうございますとだけ打って、サイレントモードにしてから寝よう。そう決めた。普段より広いベッドに大の字で寝転がって、朝目覚めたらいつも通りの日常を生きる。他人の人生も、自分の人生も、お互い通る道がこの先深く交わることはなくても。


Wants