咽せ返るような夏だった。ゆらゆら揺れる陽炎を追いかけながら、額ににじむ汗を拭う。
歳を重ねるごとにひとつ、またひとつと大切な何かを失っていくような気がしていた。成熟し、精神が研ぎ澄まされていく感覚と、小さなころに見えていたものがいつの間にか見えなくなっているような、そういう感覚が同時に存在していた。何かの気配を感じ取っては時折後ろを振り返り、誰もいないことを確認すると、少しだけ肩を落として再び歩き出す。飽きもせず、同じように繰り返し。そこに何があったら、例えば誰がいたら、俺は安堵したのだろう。淡い期待と言いようのない不安が胸の内で沸き上がる。少し前までは、ぼやけて滲む視界に待ち焦がれた人がいるんじゃないかって、心のどこかで思い描いてた日々があった。

じんわりと体にまとわりつく汗をそのままに、俺は石階段を駆け上がり、神社の境内を目指した。けたたましく鳴く蝉の声に耳を塞がれながら階段を上りきると、参道の脇に鎮座している御神木に腕を伸ばし、手のひらをぴたりと合わせている青年がそこにいた。あえて声はかけなかった。言葉にしなくても、きっと伝わるから。こうして総士と二人でいると心が落ち着く。あるべきものが然るべきところに収まるような、そういう居心地のよさ。総士も同じように思ってくれてるといいなと一騎は頭の片隅で思う。
ぼうっと突っ立ったまま、彼の日焼けしていない腕とその肌の白さを見ていた。切り揃えられている爪の先まで、全部見覚えがある。この掌が俺を焦がし、翻弄していく、お前の醜さすら受け入れてやるから二人きりで誰も知らないところへ行こう、と甘く囁くのだ。
とっくの昔に一騎の存在に気づいている総士は、それでもまだ瞳を閉ざしていて、何をしているのかと疑問に思う一騎を見抜き、先に答えを用意してやる。
「生命の声を聞いている」
穏やかな声色だった。地平線に沈む夕日のような美しい瞳をゆっくりと開きながら、総士は続ける。――お前にも聞こえるか? とそう、心の声で俺に聞く。
同じように自身の右手を木の表面に合わせ、一騎は目を閉じた。土と緑の濃い匂いと蝉の鳴き声は様々な記憶を呼び覚ます。誰かが自分の名前を呼ぶ声、少年少女の賑やかな笑い声、あの日ラジオの向こうから聞こえてきた声、まだ幼い総士の、痛いと泣き叫ぶ悲痛な声。
(消えてくれ、消えないでくれ、繋ぎ止めておいてくれ、ここに俺を)
ふっと息を吐いて、今、ここにいる総士と向き合った。緩やかな風が木々を騒がせ、二人の髪をもさらっていく。木漏れ日がきらきらと降り注ぐ中、傍に佇む総士がただただ綺麗で、いつまでたっても眩しいんだ。
「消さないでくれたんだな」
手を伸ばして、愛おしそうに左目の傷を撫でるとそれは猫のように細められていく。深く刻まれたその跡に初めて触れたとき、総士にとって自身と等しいくらい大事な存在なのだと教えてくれた。糸のように絡まっていた誤解がするりと解けていく感覚は、何もかも許されたような気がしてひどく心地がよかった。こうしてわかりあうまでにとてつもなく時間がかかったように思うし、一瞬の出来事だったようにも思えるから不思議だ。
「キス、していいか」
その問いかけに総士は、ああ、と静かに返答を返し、至極当然といったように瞳は閉じられる。整った顔立ちを見やり、この美しいものにヒビを入れたのは俺なんだと、胸に懐かしい痛みが広がっていく。今となっては嬉しい痛みだった。
左目にちゅっと口付けを落とすと、暫くしてそれだけかと不服そうに眉をしかめながら、総士はいつもより乱暴に唇を奪った。
口付けを深くし、舌先で欲望を押し付け、コミュニケーションを取るこの行為が人間らしくて総士は好きだった。愛を伝えるには目を合わせて抱きしめ合うだけで十分なのに、そんなのじゃ足りない、もっと、と一騎に求められると途端に目の前が見えなくなる。ちょっとつついて、刺激を与えただけですぐこれだ。今まで考えていたなにもかもがどうでもよくなって、そのときだけは、世界に二人きりだと一瞬でも思えるのだった。
次第に息が上がり、頬を赤く染め上げ蕩けていく一騎を見ながら、そういう顔が見たかったのだ、と総士は思う。胸中に渦巻くのは征服欲だ、ひとつになってしまいたい、同化したい、あなたと、今すぐに。これではフェストゥムとなんら変わりないなと自分の傲慢さに自嘲する。高まる熱は止まることを知らず、強引に手を取り林の奥へと連れ込むと、一騎は戸惑ったような顔をしていてなんだかいけないことをしているような気持ちになる。
ここに来る途中、一騎は総士の名前を何度か呼んだけれど、総士はそれを全て無視した。近くの木に押し付けてしまえば大体の意図は伝わるはずだと考える総士はいつだって言葉足らずで、行動で示すことしかできない。
見つめ合って数秒、こんなところで、と一騎は思うけれど、心臓はバクバクうるさいし、総士は変わらず真剣な顔つきをしていて、ともすると体温が急激に上昇しているような気さえする。熱い、暑い、目の前にいる総士のことを考えていると、身体中が火照って、熱い。
「何、するんだ」
その答えをわかっていて、あえて口にする。本当にするのかと問いただしたかった。じっと見つめていると総士はやわらかく笑んで、こう答えた。
「気持ちのいいこと」
ずるいな、と思いながら、そんなふうに自分を試す総士から目が離せない。
「……俺が?」
「僕が」
「俺も?」
……だと嬉しい、とそんなふうに総士は付け加えた。言葉で遊んでじゃれあっているのがわかって、ふふ、と一騎が花の咲くように笑ったのが最後、ふいに二人の間にばちんと火花が散ったような、はたまた落雷の落ちた後のような静けさが辺りに満ちる。
おそるおそる、確かめるように総士は白い腕を伸ばし、一騎に触れる。降りてくる優しく不器用な手のひらに、唇に、お前が嬉しいなら俺も嬉しいのだと気持ちを返す。さらけ出し、受け止める、自分を、総士を、ここにあるすべてを。
遠くで蝉が鳴いて、先ほどまで感じていた胸の痛みはもう思い出せなくて、総士の声しか聞こえない、もう他に何も考えられない。息も絶え絶えそれを伝えてしまうと、僕もだと、同じように総士は笑うのだった。

きみしかいらない