ぱらぱらと晴天の空から雨粒が落ちてきて、しまいには土砂降りのような雨になった。夏になるとふいにやってくる、夕立だった。アスファルトは黒い染みを濃くし、生ぬるい熱気と共にむわりとした湿気が肌にまとわりついて少々鬱陶しい。困ったな、と思いながら慌てて近くの軒先に駆け込んだ。そうして前を過ぎ去ろうとしていた彼女の細い腕を、総士は掴んだ。華奢な体はいとも簡単に引き寄せられる。果林は少し驚いて、走ってずれた眼鏡の位置を直しながら、皆城くんが傘を持っていないなんて珍しいね、と肩をすくめて笑ってみせた。
その発言に特に相槌は打たず、──僕だって人間なのだから傘を持たずに外を出歩くことだってあるのだと言いたいところだったが──ちらりと見やったのは比較的近くにある自宅の外観だった。
このままみぞれになって雪が降るかも、と果林は冗談を言い、その場を誤魔化そうとしているのを総士は見抜いていたが、彼女の肩口が濡れそぼっていたことと、そのうちにくしゅんと可愛らしいくしゃみが聞こえてくることを知っていたので、彼女の意向は汲まなかった。
「僕の家に……いや、君の家でもあるな。走って行けばすぐだろう」
なかなか止まない雨に断る理由もなくて、果林は仕方がなく、そうだねと頷き、行動を共にした。
蔵前果林は皆城家の敷地に入ることを好まなかった。彼女には与えられた別邸があり、自身の置かれた立場をよく理解していたので、本家に立ち寄ることは年中行事を除いてなるべく避けていた。知って知らずか、総士はそのことについて言及したことは一度もなかった。優しい人だと、思う。大人に混じってあんなに冷徹な指示をするくせに。そんなふうに果林は、総士とコミュニケーションを取るたびに相反する感情が腹の底に降り積もっていくのを感じていた。

玄関に入るとすぐさまタオルを渡され、髪を拭きながら促されるままに後を追った。むわむわと熱気の蒸している階段を上りながら、床はもちろん、途中で見える窓の桟や手すりにさえも埃一つなく、そんなふうに他人の手によって清潔に保たれるこの家を少し寂しく思った。
「いつもの部屋を使うといい」
この家に泊まるたびに、明け渡される部屋は皆城乙姫の部屋だった。いつ彼女が帰ってきてもいいようにと、大きなテディベアまで用意されている。白を基調とした家具に、金の装飾の施されたドレッサー、ふかふかでよく沈むベッド。いかにも愛されている、そんな様子が見て取れる部屋だった。
「必要なものはクローゼットにあるはずだ、足りないものがあれば教えてくれ」
他人行儀な気遣いが彼らしい。部屋に一人取り残された果林は髪を拭く以外にすることもなく、ただぼんやりとベッドに座っていた。
暑さでどうにかなりそうな部屋の中で、影になったような気持ちでそこにいた。何もする気になれなかった。私の居場所はここじゃない。蔵前果林はふたつの目を閉じて、瞑想する。
あの大きなロボットに乗って戦うこと。訓練をすること。誰にも話してしまわないこと。みんなを守ること。大勢の命が犠牲になったこと。私も彼らと同じように、いなくなること。奪われること、失うこと、そのかわりに私が得るもの。成果がなければ、きっと私は愛されない。
「蔵前」
ドアをノックする音と共に、いつだって冷静な彼の、至って平坦な声がする。どうぞ、と自分の唇から放たれたそれは、いつもより少し震えていた。こんな気持ちのまま彼を部屋に招くべきではなかった。
総士がドアを開けてすぐに目を見開いたのは、部屋のクーラーが機能を果たしていなかったことと、電気も点けないでそこにいる果林が、誰かを呪うような顔をしているように見えてぎょっとしたからだった。よくよく見れば青ざめているだけで、単なる体調不良だろうと総士は判断した。
「体調が優れないのなら、それ相応の対処が必要だ」
なぜもっと早く呼ばなかったんだ、と相手を責めるような発言をしそうになり、口を噤んだ。ここはアルヴィスじゃない。なんでもかんでも口出ししていたら、蔵前だって息が詰まるだろう。まずは空調をどうにかせねばと、総士はリモコンを手に取りクーラーを作動させた。クローゼットの中には彼女のために用意された服が、少なくとも何着かあるはずだった。知っていてそれを遂行しないということは、不本意だけれど自分が着替えさせるしかない。そんなふうに思考ばかりが先を行き、咄嗟の判断に身体の動作が連動している総士は果林の視線に気づかない。
「皆城くん」
ぐい、と唐突に腕を引けば、それはいともたやすく体勢を崩した。よく沈むベッドに総士はその身を委ねた。やわらかな衝撃が広がる。
見下ろしていたのは、先ほどの誰かを呪うような、憎しみや怒りの発露を待つような果林の顔だった。視線を向けると、スカートから伸びる膝がベッドに乗り上げて、はだけた胸元が見えた。
何をする気だろう、何をされるのだろう。怯えるわけでも、興奮するわけでもなかった。ただただ心が落ち着きすぎていて、自分でも恐ろしいほどだった。蔵前果林の全てを信頼しているわけではない。あくまで自分の読みが正しいという自信が、総士をここまでの精神状態にさせていた。したいようにさせてやればいい。
空調が効き始め、冷えた空気の中で、ひびの入った何かが壊れようとしているのを感じた。いつ解けていたのか、シーツに散らばった総士の髪はまだ乾いていなかった。果林は色素の薄いそのひと束を持ち上げ、口元に寄せる。
「ちゃんと乾かさないと風邪、ひいちゃうよ」
至って普通の声色で、果林は話す。この状況とあまりに不釣り合いな会話に、それは僕の台詞だと言いたい総士は返答を諦め、ひたすらに黙っていた。言葉の通じない生き物と目だけで会話をする。そんな感覚だ。
果林の女性らしい、きれいに整えられた爪の先が喉元に触れた。美しい動作だった。ひやりと冷たくて、まるで鋭いナイフのようなそれ。片手ではなく、両手だと認識するころには首を絞められていた。力は少しずつ加わっていき、総士の反応を窺っているようだった。息ができなくなるまであと五秒、と秒数をカウントし終わるころには、びく、と体のあらゆる末端が痙攣し、気管の圧迫による吐き気がこみ上げ総士は咽せた。
「あなたのそういうところが気に入らない」
抵抗を見せない態度のことだろうかと総士は思いながら、急に解放された喉元から肺に空気を取り込むので精一杯だった。
「そんなふうに大人のいいなりで、あなたはいつ、自分の幸せを手にするの?」
傷つけたい、という凶暴な気持ちが、体の内側から大きな波となって押し寄せ、うまくコントロールできない。果林は自分が作り出した海に溺れていた。こんなふうにしたいわけじゃないのにと、なんだか泣きそうな顔をしている果林に対して、総士はふっと笑みを零した。
「僕は満ち足りている」
総士があまりに穏やかな表情を浮かべているので、かっとなり反射的に出そうとした右手をすんでのところで握り込めた。睨みつける女の、不条理な恨みや怒りなんて総士にとっては可愛いものだった。
「真壁一騎はあなたのことしか見えていないわ」
俯きながら、果林は呪詛のように呟いた。低く深く沈んでいくのは、誰の船だったろう。
「そう仕向けたのは他の誰でもない、あなたでしょう?」
胸の内のやわらかな部分をちくりと刺された気がして、総士の完全無欠な微笑みが崩れていく。
「歪んでいるわ」
そう口にしたきり押し黙る果林の垂れた髪を手の甲で避け、かけている眼鏡をそっと外した。そうして暗がりの中できらきらと輝く、瞳の赤さを見た。血の赤、命の煌めき、あなたがそこにいるという、証。きれいだな、と総士は混じり気のない気持ちで思う。
「あなたはその傷跡を大事にしているかもしれないけど」
顔を覗き込まれて、お返しと言わんばかりに指先が総士の左目の傷に触れる。眉の上から切り裂かれたそれを、慈しむようになぞっていく。総士は瞬きを数回すると、大人しく目を瞑った。
悲しみに満ちた声が降ってくる。雪のように優しく、きんと冷えた声でそれは僕の耳に届く。
「真壁くんに見えない傷を負わせたのは、あなただってこと」
覚えていて、という彼女の透明な囁きがじわりと染みたと思えば、なぜだかふいに抱きしめられたような感覚が体をまとうように残っている。瞼の裏の赤。死者の優しさだけが、乾いた心の内側を撫でていく。みんな最後まで、優しすぎたんだ。
総士はゆっくりとふたつの目を開けてみる。思った通り、そこには誰もいなかった。

季節知らないままさよなら