ぽたりと透明な雫が古びた床の木目に落ちていく。ろくに髪も乾かさないで来たから水が滴っているのだろう。目が見えないと自分がどんなにひどい状態かわからないから、いいな。そんなことを思いながら、壁を伝って一騎はようやくその場所にたどりつく。 「どうした、一騎」 十六年変わりのない父親の声に、波立った心が穏やかになっていく。作業の邪魔をしたくなくて、気配を頼りに段差を上がり、側に近づいて腰を下ろした。膝を抱えて背を丸めると、子供に戻ったみたいな気持ちになる。いつまでたっても俺はこの人の子供なんだなと、腑抜けた頭で考える。 長らく黙っているとろくろの回転が止まり、近くにあるバケツの水で手を濯ぐ音がする。そうして彼の指先の汚れは落とされる。彼の大きな手のひらは正しさを思わせたが、そのすべての選択が正解だったわけでは決してなかった。親が子供を守ろうとする、その気持ちが正しさを、肯定を思わせるのだ。 俺がした間違いは消えないのになと、泥の洗い流される指先を想像しては、その健全さに胸が堪える。それはとても厚みがあって日に焼けていて、血管が浮き出ていて不器用で、甘皮がささくれているような。 ばさっと突然柔らかな何かが頭にかぶせられたと思ったら、近くにあったであろうタオルで頭を拭かれる。想像通りの無骨な指先が、乱雑に髪を撫でていく。たったそれだけで嬉しいんだ、俺は。 「目が見えなくなってから、ときどき思い出すんだ」 落ち着いた声で一騎は話す。見えないものを無理に見ようとはしない。抗うのではなく、身を任せたほうが生きているのが楽だから。 「人類軍の手のひら、知らない誰かに、さわられたときの感触」 予想のできない人との接触に、一騎は今更怯えた。その日の出来事を思い出すからだ。 人類軍の捕虜となってから数日後、なんの前触れもなくそれは行われた。はじめは目隠しをされた。服を脱がされ、紐のような何かで縛られて固い台の上に乗せられる。近くで何かが置かれる物音と、かちゃかちゃと金属音が鳴っていた。台を囲うように複数人、遠くにも誰かいるのがわかって、手術をされるのかと身構えていたが、そのうちに知らない手が肌に触れた。全身をくまなく、べたべたと気持ちの悪い手つきで触れられて、かと思えば突然くすぐられたり、体に何らかの刺激を与えているようだった。因子が必要なのだと説明されたが、そのとき何を指すのか俺にはわからなかった。ふいに胸に濡れた感触と荒い息遣いがあったので、舌で舐められたのだろうと思った。違う人間の舌も伸びてきて、左右の乳首をやわく噛まれたり吸われたりした。少しずつ立ちあがりはじめた性器にとろみのある液体を垂らされ、ぬちゃぬちゃと上下に擦られる。 (いやだ、こわい、たすけて、とうさん) 恐怖と緊張でゆっくりと性器が萎えていくのがわかって、すると相手の舌打ちが聞こえてくる。口を開けろ、と言われたので唇を固く結んでいやいやをするように拒否したが、それは叶わず無理矢理口をこじあけられ、タブレットのような錠剤が舌の上に乗せられた。急に差し込まれる水に噎せて、一緒に吐き出してしまうと肩にちくりと鋭い痛みが走った。すう、と冷たさが染みて、肩から右腕に向かって何かの液体が通っていく感じがする。注射があるなら最初からそうすればいいのに。気管に入った水に噎せながら恨めしく思っていたら、また粘度の高い液体を垂らされ、今度は全身に塗布されていった。ぬるぬるとした感触が気持ち悪い。念入りに乳首を弄られれば、体が勝手にびくびくと跳ねてしまう。息が荒くなってきて、投与された薬が効いてきたのか体が火照るように熱い。そのうちに足を開かされて、睾丸の下にまた別のクリームのようなものが塗りつけられた。そうして本来は排泄を行う器官に指が押し込まれ、穴を広げるように解されていく。信じられない出来事に脳が処理しきれず、一騎は抵抗できないでいた。くちゅくちゅと卑猥な音を立てながら、指先の本数が増えるころには涙がとめどなく溢れ、目を覆う布を濡らした。震える声でやめてと訴えても、その手が止まることはなかった。 指を差し込まれている内側がだんだん熱くなってきて、気持ちのいいような、ヘンな感覚が波のように押し寄せてくる。は、は、と呼吸を乱していると、もういいかと不気味な呟きが耳に入り、誰かしらのズボンのジッパーが下される音がした。 嫌な予感がして、というかそうとしか考えられないけれど、俺は今から犯されるのだ。硬いものが押し当てられ、ずぶずぶと他人の性器が自分の中に埋め込まれていく。予想は的中した。あとはそれを抜き差しされ、泣きじゃくりながら自分がおかしくなってしまうと叫び、ここにいるはずのない父親の名前を呼びながら、激しく突き動かされるたびに喘いで、とうとう俺は射精した。死にたかった。ただただ今すぐに死にたかった。腹の中で温かなものが、同じくしてびゅくびゅくと流し込まれる。違う人物に代わって、それは繰り返し行われた。そういう行為を、他人の手が突然触れるたびに思い出してしまうのだった。 何度も何度も洗ったのに、その皮膚の感覚が取れなくて、身震いが止まらない。ぎゅうと自分自身を守るように抱きしめて、小さく呟いた。 「おれの体、汚されちゃった」 ぽつんと置かれたその言葉に、史彦はわずかに目を大きく見開いて、一騎、と嗄れた声で名前を呼んだ。その反応を見て、やっぱり知ってたんだなあと一騎は胸を痛めた。 「ねえとうさん、どうしておれをだきしめてくれなかったの」 父親は言葉を失ってしまったようだった。子を守るたくましい腕が、今は恐れをなしてわなわなと震えている。 静かに瞼を開く。視界はぼやけ、物の輪郭すら捉えることができない。それでも一騎は縋るように、確かな熱を持って、それを求めた。自分のよく知る手のひらが体を撫でていく。強い力で抱きしめられると、首筋に唇をつけて愛情を表現してみせた。汗の匂い、獣の匂い。俺の大好きな父さんの、匂い。 肌着がぱさりと床に落ちてしまえば、もう他に何も考えられない、嬉しくて、幸福で、すべての境界が曖昧になっていく。心が溶けていくのを感じながら、その日、何年ぶりかわからないほど久しぶりに、一騎は父親の腕に抱かれて眠った。まるで子供みたいだと、一騎は思った。 |