開け放たれたの襖の奥には、母親の残した鏡台があった。二人の寝室は父親の部屋になった今でも家具はあらかたそのままで、誰に使われるでもなく静かに鎮座し息づいていた。一騎は無意識のうちに気配を殺し、足音を立てずにその部屋に踏み入れる。鏡の前に立つと、暗い顔をした自身と目が合った。まるで母親の生き写しのようだと気味の悪がる声がそこかしこに散らばって、ただの記憶だというのに存外気にしている自分がいるのだなと薄笑いを浮かべた。 細身の鏡台には化粧道具が仕舞われている。手のひらに乗る小さな容器、黒地に花の模様が描かれているその蓋を開けると鮮やかな赤が目に痛い。馴染ませるように薬指でなぞって、唇に紅を塗るとどこか母の面影が表れた気がした。 ――粉をはたき、頬にも色を差して、香水を体に吹きかけいつもとは違う匂いを身に纏い、夜を待ってすべてを晒し男に抱かれるような。少女はいつしか大人になり蝶のように美しい羽を広げるのだ。 「一騎」 空想に夢中になっていたせいで、父親が階段を上り近づいていたことに気がつかなかった。何をしているんだと問われ、慌てて手の甲で口を拭うけれどそんなこと一目瞭然だったろう。 気まずさから逃げるように部屋を後にし、玄関を飛び出してしまえば行くあてもなくただ景色がスピードに乗って流れていく。走る足を止められないままなぜだか焦燥感に胸を詰まらせ、思うことはただ、今すぐに総士に会いたかった。 行けども行けども疲れない肉体に対し、むしろ精神のほうが疲弊し歩みを止めた瞬間、一騎はその姿を目の端で捉えた。生徒会の帰りであろう総士が書類の入っている封筒を抱え、長い髪を風になびかせていた。 「……アルヴィス、こっちじゃないだろ」 木の影から声をかければ突然の来訪者に驚いた総士が、一呼吸置いてすぐに冷静さを取り戻していく。 「自宅の様子を見に行く途中だったのだが」 自宅、というのは皆城の家のことだった。総士がアルヴィスの中に住居を構えてからまだ一年も経過していないのに、はじめからそうだったかのように感じられるほど彼はあの機関に馴染んでしまった。洋館のような佇まいの家は皆城公蔵がいなくなってから誰も住んでおらず、さながら幽霊屋敷のようだった。 総士はふっと息を吐いて、ゆっくりと目を細める。獲物を捕らえるような視線に、一騎は身動きが取れなくなる。そうしてゆっくりと近づき、耳元に顔を寄せた。 「口、どうしたんだ」 言われて一騎はようやく気がついた。手の甲についた赤を見やると、途端に自身が大変なことをしたんじゃないかと恐ろしくなる。唇からその色が滲んでいて、だから総士を焚き付けてしまった。総士は一騎の耳にふっと息をふきかけたあと、不敵な笑みを浮かべて、獲物を逃がさないようにその手を取った。 「わからないんだ」 なんで口紅を引こうとしたのか、と一騎は甘い吐息と共に吐き出した。一輪の花でも手折るように、それでいてひどくやさしい手つきで総士は一騎の服に手をかける。 あのあと手を引かれ皆城家に連れられると、強引にベッドのある部屋に押し込まれたのだった。素肌をできるだけいやらしい手つきで撫で上げ、唇からはみ出た紅にリップ音を立てながら口付ける。 「そ、うし……」 長く伸びた睫毛に、透き通るようなきめ細やかな肌の質感、通った鼻筋にシャープな輪郭。こんなにも清潔感のある顔をしているというのに、今していることは何なんだろう。ベッドのスプリングがぎしぎしと軋み、埃の舞うこの部屋で、誰にも知られてはいけない二人だけの秘密を作る。 赤い舌で唇の割れ目をなぞられ、あっけなくその進入を許してしまった。総士に見つめられるだけで、心臓がどくんどくんと奥深くで脈打つのを止められない。口付けが深くなれば蕩けるように瞼が落ちていく。 男ではなく、少年ではなく、少女でもなく、もっと遠い、母親のような存在になりたかった。ひどく身勝手な願望だった。女になれば今していることだって、正当な行為だと認められる。総士に抱かれたかったのだと自覚したのは、組み敷かれ、激しく突き動かされているときだった。この美しい男が、自分だけを見ている。なんていい景色だろう。快感に身悶えながら思考を追いやって、それでも行為が終わってしまえば未練が残る。 風呂場で精液を掻き出しながら、孕むことができたら、残せるものがあるならよかったと、そんなふうに思ったりするんだ。 お前のものになりたい。小さく呻るように呟いたその声はシャワーの音でかき消されていった。 元に戻す/やり直し |